一輪の廃墟好き 第75話~第77話「水平線」「夜の海」「人魂」

一輪の廃墟好き

「一、すまんけどちょっと座って待っとってくれんか」、祖父はそう言って船の狭いエンジンルームに入り故障箇所を探し始めた。

 僕は一抹の不安を感じながら船の端に腰を下ろして夕陽を眺める。

 上手くいけば長くなるであろう人生において、夕陽が沈んでいくのをゆっくり眺め続ける機会などそうそうあるものではない。船上で海の水平線に沈んでいく夕陽とくれば尚更だ。

 辺りには海鳥の姿も見えなくなり、 船にあたる細波の音だけが耳を打つ。

 最初はエンジンの修理に勤しむ祖父に子供ながら負い目を感じてはいたけれど、神々しいとも云える夕陽の沈む光景に没頭した僕は、いつしか祖父のことをすっかり忘れてただひたすら眺め続けた。

 夕陽が海の水平線に全身を呑み込まれた頃、冷たくなった潮風がTシャツ一枚という薄着の肌を突き刺す。

 僕が鳥肌の立った両腕を摩りながら腰を上げ、祖父の様子を見ようと立ち上がった瞬間、「ポッ!ポッ!ポッ!ポポポポポポ!」と音を立てて船のエンジンが息を吹き返した。

 「やっとかかったぞ!真っ暗になる前にはよぉ帰らんとね」と、祖父が黒い油のついた顔を拭きつつ僕に言う。

 「うん!お腹も減っちゃった」、エンジンが復活した安堵で急に空腹感を覚えた僕は苦笑いしてそう応えた。

 祖父が海に沈めていた碇のロープを手繰り寄せるのを手伝い、ようやく僕達は港へ向かったのだけれど、暗くなった海上で予期せぬ「モノ」との遭遇が待ち構えていたのである…

 船のエンジンが復活して動いてくれたのは良かったけれど、祖父に言わせればどうやら本調子には程遠く、速度が上がらずなかなかのロースピードで船は進んで行く。

 おまけに辺りは暗くなる一方だというのに、船の電灯も故障して使えないままという有り様だった。

 電灯の故障に関しては、流石に祖父の管理不足だと思ったのだが、敢えてそこは子供ながらに黙したものである。

 「いちぃ、すまんどんこいを持って船ん前ば照らしてくれ」、そう言って祖父は古びた懐中電灯と雨合羽を僕に手渡した。

 僕は祖父の指示に従い雨合羽を身にまとい、船の先端付近に腰を下ろし、点くかどうか分からない懐中電灯のスイッチを入れた。

 幸いなことに古びた懐中電灯は弱々しいながらも明かりを発してくれた。もちろん車のライトのように前方を照らしてはくれなかったけれど、少なくとも周囲に船の存在を知らせるにはこと足りていたかも知れない。

 雨合羽は肌寒かった僕の身体を守ってくれて、立っていた鳥肌もいつの間にか消えていた。

 とはいえ船の周囲には灯りがまだ一つと見えず、小学三年生の僕にとっては遊園地のお化け屋敷並みの怖さがあったものである。

 そんなことを考えつつ、港を目指して進む船の周囲を見渡していると、不意に僕の視界へある何かが飛び込んで来た。

 僕は疲労の所為で見間違ったのではないかと手の甲で瞼をゴシゴシと擦り、その「ある何か」の方へ再度視線を送った。

 見間違いではなかった。

 船の右斜め前の水上に、それは確かに発光しながら浮いていたのだった…

 初めて目にする不思議で不気味な光景前にして、呆然と思考の停止した僕の身体は一時のあいだ硬直していた。

 船体と海の波が衝突して弾けた波飛沫が顔に当たり、その冷たさにハッと我にかえった僕は、船の舵をとる祖父の元へ駆け寄り、水上に浮き青白い光を放つ火の玉の存在を示唆する。

 祖父が舵を掴んだまま火の玉のある方へ目線を送ると、「ありゃぁ…」とうめくような声を出して速度レバーに手を掛け、速くはなかった船の速度をさらに緩めた。

 そして舵から両手を離し、火の玉の方へ全身を向け手を合わす。

 祖父は目を瞑って「ナンマンダァ、ナンマンダァ、ナンマンダァ…」と何度も何度も念仏を唱えたのだった。

 わけが分からなかった僕も、真剣に念仏を唱える祖父の姿に同調し見よう見真似で念仏を唱える。

 祖父の念仏が止まると、まだ念仏を唱えていた僕に「もうよかよ」と声がかかり、呟くように説明してくれた。

 祖父が言うにはあの火の玉は、否、話を聞いたあとでは「人魂」といった方がしっくり来るかも知れないが…それはともかくとして、昨年の寒い11月の日、タコ壷漁に船を出して帰らぬ人となってしまった祖父の友人に違いないとのことだった。

 事故当時、翌朝になっても帰って来ないのを心配した家族の方が警察に連絡し、海上保安庁の隊員と、集落の人々が懸命に捜索したのだが、残念ながら亡骸が発見されることは無かったらしい…

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