一輪の廃墟好き 第55話~第57話「山猫」「足跡」「醍醐味」

一輪の廃墟好き

「助手よ、見えたか?」

「うん、ほとんど見えた。あれは絶対に猫だったよ」

「僕もハッキリではないが猫にしか見えなかった。しかし、普通の野良猫では無く、恐らくは山猫といったところだろうな…」

「そう言われればそうかも知れない、かなぁ…」

 目に映ったのがほんの僅かな時間であったため、二人とも決定的な確信を得てはいなかったが、あれは「飼い猫」ではなく「山猫」に違いないという結論に至った。

 なぜ僕達が猫は猫でも「飼い猫」ではなく、厳しい自然界で野生的に生きる「山猫」だと判断したのか説明しよう。

 世の中には単に可愛いという理由だけで猫を飼い始める人がいらっしゃるわけだが、猫を飼うためのリスクなどをさして調べもせず飼い始めた結果、飼い慣らした温室育ちの可愛い猫を山に捨てるなどの暴挙に至る飼い主も存在する。

 ペットフードを与つつ、飼い慣らした獲物を捕らえる術を知らない猫を森や山に捨てた場合、その猫がいったいどのような末路を辿るのか?

 稀だが自然に溶け込み生き延びる捨て猫も存在するのだろうけれど、普通に考えれば食糧不足で野垂れ死ぬが関の山といったところであろう。

 街中で捨てられた猫に関しては、食料を無駄に捨てたりなんかする人間社会でギリギリ生き延びることも可能であろうが…

 「ど」が付くほど田舎の井伊影村の民家の無い森の奥に、無情にも飼い猫が捨てられたとして、生き延びられる可能性は極端に低いのである。

 以上の理由から、僕達はあの逃げ去った猫が「山猫」であるという結論に至ったわけだ…

取り敢えずあれが山猫だったかどうかは兎も角として、僕達は淀鴛家の廃墟探索を再開した。

 燈明神社にも多くの足跡があったけれど、淀鴛家の居間と寝室の畳にも多くの足跡が見受けられた。

 この足跡の主がどのような目的で家の中に入り、果たして人物像は如何なるものなのかまでは正直さっぱり分からない。

 だが少なくとも、僕が燈明神社を訪れるきっかけとなったブログを作成した人物が、ネット上にアップしていた画像からして訪れたのは紛れもない事実であり、数種ある足跡の一つはその人物のものである可能性が高いだろう。

 もしも足跡だけで人物を特定することが可能ならば、探偵業務の遂行に大いに役立つのだが…

 然るに僕のなんちゃってサイコメトリー能力である「想いの線」は、こういった人の作り出す足跡や指紋跡、他にはシミなどにも残念ながら全く反応してくれない。

 例えば計らずとも助手の未桜が作った出来立てホヤホヤの足跡に触れてみても、きっと「想いの線」は発動することなく徒労に終わってしまうこと請け合いである。

 などと考えつつ懐中電灯で室内を照らし、山猫(仮)が潜んでいた押入れの襖を開けて中を調べる。

 中には淀鴛さんの家族が30年前まで使用していたであろう布団一式がそのまま、否、クリーニングに出しても取れないような汚れにまみれ、そこら中が傷んで綻び、二度と使用出来ないくらいにボロボロの状態で放置されているが、あの山猫(仮)にとっては格好の寝床となっているだろう。

 ふと、淀鴛さんが語ってくれた30年前の話を思い出す。

 確か事件当時、この布団は家族三人が寝るため畳の上に敷かれていたのではなかったか?

 いや待て、自ら疑問視しておいて直後に思い直すのもなんだけれど、そんなに深く考えるまでもなかった気がする…

 この家で起きた30年前の悲惨な事件は他殺ではなく自殺だと警察が断定したのだから、その後にでも井伊影村の村民などが親切に片付けでもしたのではないだろうか。

「これが例の時計ねぇ」

「ふぁっ!?」

 僕は彼女が突如として出した声にビクッと反応し、情けなくも変な声をあげてしまった。
 
 敢えて断っておくけれど、これは僕が臆病者だという指標などには決してならない。

 恐らくは殺人事件のあったであろう薄暗くそれなりに雰囲気あるこの廃墟で、集中して物思いに耽っているところへ声が突然飛び込んで来れば、誰だって驚いてしまうというものだ。

 そう、しつこいくらいに何度でも言わせてもらおう。僕が臆病者なわけがないのである。

 臆病な奴がたった一人で廃墟探索などできよう筈もないのだから…

「その年季の入ってる年寄りの古時計、流石に動いてはいないようだな」

 幼かった頃の淀鴛さんに時間を知らせていた振り子式の掛時計。錆びれて歪んだのか裏の留め金が緩み斜めに傾いており、振り子は力学的エネルギーを完全に失い、死んだように静止していた。

 人間に命の期限があるのと同じで、一見永遠と思われる機械や道具にも命の期限はある。
 ただ機械や道具が人間と圧倒的に異なるところは、壊れた部分の部品を交換したり修理してやれば機械や道具はその命を吹き返す。それに比べ人間という生き物は様々な事象により一旦命を失えば、儚いが二度と再生することが出来ない。

 人間は謂わば機械や道具にとって神のような立場でもあるのだが、自分らの生命を自在に扱うことの出来ない不憫な神でもあるのだ。

 初めて目にした古時計に興味が湧いた未桜が、古時計を真っ直ぐにしようと背伸びしているあいだに僕は台所へと移動する。

 台所にある流し台のシンクには塵や錆びが散乱しており、人が使用しなくなって放置されるとここまで酷くなるのかという有り様だった。

 でも僕は想う。

 普段の生活で使用する台所がこんな有り様なら残念なことこの上ないのだけれど、こと廃墟探索をする上での光景ならば、心が感傷に浸るという表現が適切かどうかは別として、「これぞ廃墟探索の醍醐味」と言っても過言ではないと想えてしまうのだ…

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