夢中の少女 2~3話

夢中の少女

[アイツが変わってしまった日]

 アイツはこの六畳の狭い居間で、たまに仕事で外に出ている時以外は、いつもテレビや新聞を読みながら酒を呑んではくだを巻いていた。

 僕はそれを見るのも聞くのも嫌で嫌で仕方が無くて、隣の寝室でずっと一人で遊んでいた。

 時折、襖を開けては「お前は遊んでばかりで幸せだな!」などと、幼児に言うには到底相応しく無い言葉で怒鳴り散らし、殴ったり蹴ったりして来る。これが延々と繰り返される毎日。

 こんな父親を恐れない幼児などこの世には居ないだろう。

 どうしようもない父親だったが、恐らく最初からそうだった訳でも無かったような気がする…

 なぜなら僕には、笑っているアイツに肩車をしてもらい、隣には笑顔の母が居て、三人で河原の道を歩いた記憶があるからだ。

 母のことは朧げであまり覚えていないけれど、優しくて温かな人だったと想う。

 僕が5歳の時までここで一緒に生活していた母は肝臓癌で亡くなったらしい。
      
 母が入院していている病院に、アイツと一緒に車に乗って何度も訪れた記憶がある。いま想えば、病気で身体を起こすのもきつかったはずなのに、いつも笑顔を見せてくれていた気がする。

 当時の僕は人の死というものを、幼いから当然と言えば当然なのだが、全く理解することが出来なかった。

 だから「お母さんは何処に行ったの?」、「いつになったら帰って来るの?」などと、毎日のようにアイツに質問を浴びせかけていたのだが、ある日を境に質問をすることは無くなる。
 アイツが「お母さんが死んで辛いのはお前だけじゃ無いんだ!」と言って僕を本気で殴ったからだ。それからだったのかも知れない。幸せだったはずの親子の関係性はガタガタと崩れ、狂気の日々に変わってしまったのは…

 アイツが変わってしまったのは僕の所為でもあったが、母の死が重大な原因であったことは間違いない。
 だから暴力を振るわれる度に、布団に包まり泣き腫らしては「なんで死んだんだよお母さん!」と心の中で何度も叫んでいた。
 母だって病気になりたくてなった訳ではなく、死にたくて死んだ訳でもないのに…

 だが、理由は何であれ、アイツが幼い僕に長いあいだ振るった暴力は絶対に許されないし許さない。絶対にだ!

 過去を思い出していた僕は、ふと我に帰る。今はいつなんだ?

 部屋の中には薄っすらと記憶に残っている当時の古いテレビやテーブル、棚などの備品があった。
 タバコのヤニで汚れた壁に大きなカレンダーが掛けてあるのを見つけ、近寄って確かめる。

 カレンダーには西暦XXXX年11月の記載があり、日付の20日は赤いマジックで囲まれ、「最後の日」と書かれていた。

[小さなリュック]

 この年と日付けは鮮明に覚えていた。一生忘れられない衝撃的な出来事が重なった日だったから…

 外を見ると陽が沈み、遠くが見えなくなるほど薄暗くなっている。もし、あの日と同じならそろそろアイツがこの部屋に帰ってくる頃だ。
 そんな風に考えている際中に「カツン、カツン」と、鉄製のアパートの階段を上がって来る音が聴こえた。
 音の調子からしてアイツだとすぐに分かる。思い出したくも無い嫌な音に、無いはずの心臓がまた高鳴り出し、胸焼けするような感覚までしてきた。
 
 相手に見えないのだから隠れる必要は無いのだが、無意識に棚の横に隠れてしまった。

 開錠してドアを開く音が聴こえ、重い足取りでゆっくりと部屋に入って来る。
 11年ぶりにアイツの顔が見えた…

 何の手入れもしていないクシャクシャの黒髪。痩せて頬が痩け無精髭を生やしている。魚の死んだような目をしていて、幽霊のように顔が青白い。

 こんなんだったか?僕の血の繋がった父親は…

 当時は暴力を振るわれるようになってからというもの、恐くて顔をまともに見る事が出来なくなり、優しかった頃の顔を微かに覚えていた程度だった。
 
 まるで死人じゃないか。いや、死人の方がもっと綺麗な顔をしている…

 これが11年経って成長した僕が見たコイツに対する正直な感想だ。

 コイツは手に持っていた真新しい小さなリュックをテーブルに置き、壁際に一式揃えてある僕の服や下着にタオル、懐中電灯や水筒、飴やチョコレートを入れてリュックの口を閉じる。
 そして、立ち上がってテレビの裏に手を伸ばし埃の被った封筒を取り出して、リュックの別のポケットに差し込んだ。

「これで良い…」

 そう呟き、薄い笑みを浮かべた。
 どういう心境なのかまでは計れない。

 だが一瞬で笑み消したコイツが、酒呑み特有の枯れた声で幼い頃の僕を呼ぶ。

「ナギ!出て来い!オレと一緒に外へ行くぞ!」

 …暫くの沈黙のあと、襖の向こう側から震えた子供の声が聴こえる。

「い、いやだ。い、いっしょになんか出たくない」

 この時のことは微かに覚えている。

 コイツが部屋に帰って来る音が聴こえると、この頃の僕は布団の中に入りガタガタと震えながら、「早く眠れ、早く眠れ」と呪文を唱えるかのように繰り返し言う事が癖になっていた。
 だから襖の向こうから話しかられると更に動揺してしまい、声が震えてしまう。

 この時はいつもと違う言葉を掛けられ、ただ一緒に居たくない気持ちと、子供ながらに強い警戒心が働いていたような気がする。

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