[半泣きになる]
林を抜けてやしあか温泉へ向かうと、髭面で長髪のボサボサ頭をした、40代前半くらいの男性が入り口に立っていた。
久慈さんが気さくな感じで男性に声を掛ける。
「お疲れ様です。アマノさん!いや~、今日も天気が良いですね~」
声を掛けられたアマノさんの表情がすぐに曇った。
「フン、お疲れさん。天気などどうでも良い。早く竹箒を返せ!」
「で、ですよねぇ、ハハハ…」
あたぁ、久慈さんが冷や汗を掻いている。世間話で和まそうとする作戦は失敗してしまったようだ。
見るからに怖そうで気難しそうな人だな…ええい、もうストレートに謝っちゃおう!
「アマノさん!返すのが遅れて申し訳ありませんでした!これ、拝借していた竹箒です」
竹箒を両手で持って差し出すと、「フン!」とやや乱暴にアマノさんが受け取り、竹箒を嘗め回すように見て状態を確かめる。
「フン、まぁ竹箒はどこも傷んで無いようだな。しかし、人の物を黙って使ってしまうのは良くないぞ!こんなボロい竹箒でも急に無くなれば、持ち主は探し回ったりして困るもんだ!」
「は、はい!本当に申し訳ありません!以後、気を付けます」
怒った顔と喋り方にわたしの顔がこわばってしまう。
そんなわたしの顔を見たあと、アマノさんの怒り顔が一変してなぜかニカっと笑った。
「な~んてな。ビックリしただろ。ここまで怒るつもりは無かったんだが、なんせオレは天邪鬼なんでね。まぁ、これは社会人として一つの洗礼を受けたと思うことだな」
笑顔でそう言ってくれたけれど、わたしはやしあか動物園に来て初めて半泣きになっていた。
「…はい。しっかり心に刻んで反省します」
アマノさんからのお叱りを受けてシュンとなってしまったけれど、次の仕事のために久慈さんと動物達の元へ歩いて向かう。
「ま、まぁ、あれだね。時にはこんな事もあるさ。僕が新人の頃も家に帰って何度か泣いたことか…」
久慈さんのキャラからして泣いている姿が想像できない。
「励ましてくれてありがとうございます。そうですよね。誰だって失敗して怒られて反省して、そこから成長して行くものですよね」
「そうそう、僕が言いたかったのはそういう事だよ。失敗したら、それを次に活かせば良いのさ。さすが紗理っち!」
わたしは久慈さんの優しさで心が少し回復したような気がした。
こういう風にフォローしてくれる先輩が近くにいると、会社で働く新人社員としては幾分か救われるのだろう。
アマノさんには暫く苦手意識が出てしまうかもだけど、逃げずに接していればそういった意識にも変化が起こるはず…わたしはそう想うことにした。
[料理長のナカさん]
気を取り直して午後からの仕事に専念する。と言っても、この時間帯は相変わらず久慈さんの後ろで勉強させてもらっていた。
牛の説明を聴いていたら、思わず牛の肉の部位を想像してしまった。まだ牛への愛着が湧いていないのだろうか?ちょっと自分が心配になってしまう…
説明がひと段落して久慈さんが声を掛けて来た。
「そろそろ切り上げてナカさんに挨拶しに行こうか?」
「今日は久慈さんにお世話になりっぱなしで、何だか申し訳無いです」
「ハハハ、全然気にしなくて良いよ。紗理っちの世話をする事が教育係としての僕の仕事でもあるからね」
「そう言ってもらえると助かります」
時間的には午後3時前、お昼時のピークを過ぎて客足も緩やかになっている時間帯。料理長のナカさんに会いに行くため、やしあか食堂に二人で向かった。
やしあか食堂の中に入り見渡すと、お昼時とは違いお客さんは数人で静かになっている。
久慈さんが厨房を覗き込みナカさんを見つけたらしい。
「紗理っち、あの青い服と帽子を着た人がナカさんだよ」
遂に見れた!あれが素晴らしい料理をいつも提供してくれる、やしあか食堂の料理長のナカさんかぁ。
何だろう、昔の料理番組に出ていた料理職人の雰囲気を漂わせている。渋いおじさんのイメージ。
まだ料理の仕込みをしている最中かな?
「久慈さん、今はまだ話し掛けない方が良いですよね?」
「ん~、そうだなぁ…」
「おう!そこの二人!オレに何か用事でもあるのかい?」
わたし達の視線に気付いたのか、ナカさんの方から話し掛けて来た。
「ナカさんすみません!新人飼育員の紗理っちが、ナカさんに言いたい事があるらしくて連れて来ました」
久慈さんがそう言うと、ナカさんは手にした包丁をまな板に置き手を洗ってこっちまで来てくれた。
「おう、あんたが紗理っちか。で、何が言いたいんだい?料理のクレームは止めてくれよ」
ナカさんは堅そうな職人だけど冗談も言うのか。
「あの、昨日はタコのカルパッチョをありがとうございました。とても嬉しくて美味しかったです!」
「なんだい。そんなことを言うためにわざわざ足を運んでくれたのかい。ありがとよ。何か食べたい物があったらいつでも良いな。チョチョイと作っちまうからよ」
「いえいえ、そんな、滅相もないですよ。でも、ありがとうございます!」
「おう!じゃあまだ仕込みが終わってねえからまたな!」
「あ、はい!」
ナカさんは仕込みをするために厨房の元いた場所へ戻って行った。
「気持ちの良い人ですね。ナカさんて」
「ああ、凄い人なのに全然偉ぶったところが無いから話し易いしね。でも仕事には厳しい人だよ」
確かに人を寄せ付けないような人では無さそう。逆に人を引き寄せるような人に想えた。
[洗濯係のアズキさん]
やしあか食堂を出て事務所に戻り、久慈さんの書類作成を手伝った。
どんな会社の仕事内容も入社してみて違うところはあるけれど、飼育員の仕事に対してのイメージも入社前のそれと比べ変わって来ている。
意外にも多岐に渡る仕事内容にわたしは遣り甲斐を感じていた。
事務所での仕事を終え、夕方の給餌まで済ませてロッカルームに行き私服に着替える。
脱いだ作業服を事務所の廊下にある作業服収集ボックスに持って行くと、後ろから女性の声が聴こえた。
「お疲れ様~紗理っち」
初めて聞く声に少し躊躇しながら後ろを振り向くと、小柄でショートカットの似合う可愛らしい女性が笑顔で立っていた。
「お、お疲れ様です…」
「フフフ、そんなに警戒しないで良いわよ~。わたしは洗濯係をしている小豆洗いのアズキって言うの」
あっ!いつも作業服を洗ってくれている人だ。
「初めましてアズキさん!いつも作業服を綺麗に洗ってくれてありがとうございます!」
感謝の気持ちを込めてお礼の言葉を言うと、アズキさんの動きがピタッと止まりなぜだか目を潤ませている。
あれっ!?なんか地雷を踏むような言葉を言ってしまったのかな…
「あの、わたし変な事を言ったかも知れませんし、何が何だか分からないけどとにかくすみません!」
困惑してとにかく謝ってしまえ的なノリで謝ると、アズキさんの口角が上がり泣き笑いの表情に変わって、零れそうな涙を服の袖で拭いながら口を開く。
「ごめんごめん。勘違いさせちゃったよね。紗理っちが真っ直ぐな目をしてお礼の言葉を言ってくれるものだから、今までの想いもあって自然に涙が出たみたい」
取り敢えず悪いことではなさそうだったので胸を撫でおろす。
折角の機会だから少し突っ込んで話しを訊いてみようかな…
「もしかしたら仕事でストレスが溜まってるんじゃないですか?」
そう言うとアズキさんは黙り込み下を向いてしまった。
嗚呼、今度こそ地雷を踏んでしまったかも。
「若輩者のわたしが失礼なことを…」
「違うの!あなたの言う通りだったから話すかどうかを迷っていたの!」
と言ってまた黙り込んでしまう。
これは先走らずに相手が話し出すのを待った方が賢明かも知れないな。
それにしても、帰る間際にこんな展開が待っていようとは…あっ!?タイムカードを押さなきゃ。
「あの、アズキさん。わたしで良ければお話しを伺いますので、タイムカードだけ押して来ますね」
「本当に良いの?」
「もちろんですよ!じゃあ押して来るので外のベンチで待っていてもらえますか?」
「分かった、待ってる…」
こうしてわたしはタイムカードを押して、帰ろうとする久慈さんに挨拶したあと、事務所の外にあるベンチに向かった。
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