[事の始まり]
「ちょっと早いけどお茶にしちゃおうかしら」
調理器具などの片付けが終わり、冷蔵庫横の壁に掛けられた時計で時間を確認する母。
時刻は午後2時半過ぎ。
手際良くインスタントコーヒーを作った母は、煎餅などの茶菓子が入った茶菓子器とコーヒーカップを手に持ち、冷たい廊下を歩き居間へと移動した。
今更ながらここで気づいたことが一つある。
幽体の僕には視覚と聴覚はあるが、匂いを識別する嗅覚は備わっていないらしい。
母が台所で料理の下準備をしている最中もそうだったけれど、コーヒーや料理の香りが全く分からないのである。
僕の今の状態で機能しているのは視覚と聴覚の二つだけ。五感のうち触覚、味覚、嗅覚の三つも機能していないのだが、違和感少しある程度で不自由さは感じていなかった。
この三つの感覚が欠落している代わりに浮遊できたり、壁のような物質をすり抜けることができているのだろうか?…
幽体の謎についてヒントを与えてくれる人が何処にも存在しないため、考えてもなかなか進展が無いのは残念なことである…
母は午前中の休憩時と同じようにこたつとテレビの電源を点け、こたつに入りコーヒーを飲みながらワイドショー番組を視ていたが、急に何か思い出したようにスマホを取り出し、テレビそっちのけでスマホをいじり見入っていた。
僕は暇を持て余し、こたつのテーブルを挟んで母の正面に座り何となくテレビを眺め始める。
ワイドショーではクリスマスの特集が組まれていて、街で買い物をする溢れんばかりの人だかりの中、リポーターが現場で人選してインタビューを行っていた。
インタビューされた若い女性が笑顔を見せながらクリスマスに纏わる質問に答えている。
この人は幸せそうだな…
画面越しの表情と声のトーンだけでワクワク感が伝わって来た。
テレビを視始めてから10分ほど経過した頃…
「ガタン!」
テレビが点いているというのに突然外の方から物音が聴こえ、僕の中に緊張感が走る!
音の聴こえた場所が方向的にトイレの外だったからだ。
「なに!?今の音…」
母も外の物音に気付いたらしく、テレビのリモコンを手に取りミュートボタンを押して音を消す。
黙ってジッとしているあいだに、僕は外に出て確かめに行くべきか、それとも母から目を離さずに張り付くべきか葛藤していた。
もし、今の物音が失踪事件の始まりだとしたら…
これから母に何かが起こるのであれば、目を離さずに張り付いておくべきかも知れない。
僕は急いで考えた末、後者を選んだ。
[物音の正体]
「ガタン!」
一度目の物音が聴こえてから1分ほど経過した頃、同じように大きな物音が同じ場所から再び聴こえた。
この家の近辺に人は住んでおらず、外は雪が降り積もっているため尚更人が訪れる可能性は低い…はず。
雪が屋根から落ちて物に当たって出た音かも知れないし、風が吹いて物が倒れただけのような気もする…
とにかく確かめないことには何とも言えない。
さっきまでテレビを視ながらコーヒーを飲みゆっくりしていた母だったが突然聴こえた得体の知れない物音の所為で表情にも緊張感が色濃く表れている。
山奥の家に一人で留守番をしている時にあんな音が聴こえれば17歳の男である僕でもきっと警戒するだろう…と言うか実際のところ今まさにびびってしまっている。幽体なのに、だ…
母は音の正体を確かめに行くことを決心したのだろう。いじっていたスマホを手に持ったまま立ち上がり、居間を出てトイレの方へお化け屋敷を歩くかのように恐る恐る向かい、トイレのドアを身構えながら開き中に入って何気なく棚にスマホを置いた。
棚に置かれたスマホを見て、僕の頭の中で事件当日のイメージがフラッシュバックする。
こんな流れだったのか…
奥の壁の上に位置する曇りガラスの小窓を開けようと近づいたその時!
「キャッ!?」
小窓を一瞬黒い影が通り母が驚いて声を上げた。もちろんと言うか、情け無い無いことに僕も驚いてしまったのだが…
「怖いけど…確かめなきゃね…」
恐怖心が増加して顔が青ざめている母が自分に言い聞かせるように呟き、再び小窓を開けようと慎重になって動き出す。
そして小窓のロックを外し、2枚の引き違い戸の左側をそっと開けゆっくりと顔を近づけた。
母は何とか恐怖心に打ち勝ち外に顔を出して呟く。
「誰も居なわね…」
この時僕も壁をすり抜け外を確かめたけれど、人はおろか動物の姿さえ無かった。
僕も母も、とにかくあの音の原因を探ろうと辺りを見回す。
「物音の原因はこれかしらねぇ?…」
呟いた母と僕の目線の先には、家の改修のために父が切った3mほどの丸太が、投げ出された感じで地面に5本転がっていた。
この丸太は壁際に積み重ねて纏められていたのに…大きな竜巻ならともかく、突風が吹いたくらいではびくともしないはず…
明らかに人為的な倒れ方をしている。
至極僅かな可能性として、力の強い熊なら不可能では無いだろうが、今は真冬で山に居るとしても冬眠していることだろう。
丸太を見ながら母は呆然とし、僕が考えを巡らせていると…
「どなたか居ませんか~っ!」
玄関の方から男性の大きな声が聴こえた。
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