夢中の少女 3~5話

夢中の少女

[小さなリュック]

 この年と日付けは鮮明に覚えていた。一生忘れられない衝撃的な出来事が重なった日だったから…

 外を見ると陽が沈み、遠くが見えなくなるほど薄暗くなっている。もし、あの日と同じならそろそろアイツがこの部屋に帰ってくる頃だ。
 そんな風に考えている際中に「カツン、カツン」と、鉄製のアパートの階段を上がって来る音が聴こえた。
 音の調子からしてアイツだとすぐに分かる。思い出したくも無い嫌な音に、無いはずの心臓がまた高鳴り出し、胸焼けするような感覚までしてきた。
 
 相手に見えないのだから隠れる必要は無いのだが、無意識に棚の横に隠れてしまった。

 開錠してドアを開く音が聴こえ、重い足取りでゆっくりと部屋に入って来る。
 11年ぶりにアイツの顔が見えた…

 何の手入れもしていないクシャクシャの黒髪。痩せて頬が痩け無精髭を生やしている。魚の死んだような目をしていて、幽霊のように顔が青白い。

 こんなんだったか?僕の血の繋がった父親は…

 当時は暴力を振るわれるようになってからというもの、恐くて顔をまともに見る事が出来なくなり、優しかった頃の顔を微かに覚えていた程度だった。
 
 まるで死人じゃないか。いや、死人の方がもっと綺麗な顔をしている…

 これが11年経って成長した僕が見たコイツに対する正直な感想だ。

 コイツは手に持っていた真新しい小さなリュックをテーブルに置き、壁際に一式揃えてある僕の服や下着にタオル、懐中電灯や水筒、飴やチョコレートを入れてリュックの口を閉じる。
 そして、立ち上がってテレビの裏に手を伸ばし埃の被った封筒を取り出して、リュックの別のポケットに差し込んだ。

「これで良い…」

 そう呟き、薄い笑みを浮かべた。
 どういう心境なのかまでは計れない。

 だが一瞬で笑み消したコイツが、酒呑み特有の枯れた声で幼い頃の僕を呼ぶ。

「凪!出て来い!オレと一緒に外へ行くぞ!」

 …暫くの沈黙のあと、襖の向こう側から震えた子供の声が聴こえる。

「い、いやだ。い、いっしょになんか出たくない」

 この時のことは微かに覚えている。

 コイツが部屋に帰って来る音が聴こえると、この頃の僕は布団の中に入りガタガタと震えながら、「早く眠れ、早く眠れ」と呪文を唱えるかのように繰り返し言う事が癖になっていた。
 だから襖の向こうから話しかられると更に動揺してしまい、声が震えてしまう。

 この時はいつもと違う言葉を掛けられ、ただ一緒に居たくない気持ちと、子供ながらに強い警戒心が働いていたような気がする。

[沈黙する親子]

 「いやだ」と否定する言葉に対し、普段なら怒りをあらわにするコイツが首を振って薄い笑みを浮かべている。

「凪、殴られたくなかったら出て来て一緒に外へ出るんだ」

 最初よりも穏やかな言い方で再度呼び掛けた。

「………」

 一時の沈黙が流れ、カタッと静かに襖が開いて幼い僕が顔を出す。

 正直言って顔が汚く見える。風呂には一ヶ月に一回くらいしか入れて貰えていなかったからだろう。

「よし、やっと出て来な。外に出て車に乗るんだ」

「ど、何処に行くの?」

「ファミレスに飯を食べに行くだけだ。今日は何を食べても良いぞ」

「本当に?」

「ああ、本当だ。早くしろ」

 コイツと二人で外食をするのは、暴力が始まる以前もあったかも知れないが余り記憶に無い。
 幼い僕は納得の行かない顔をしながらも、暴力を振るわれるのが恐かったのだろう、コイツの言う通りに外の駐車場に移動した。
 当然だけれど僕は二人に着いていく。

 金が無かったのか自家用車は錆びれてオンボロを絵に描いたようだった。
 幼い僕は助手席に座り、幽体の僕は後部座席に座る。

 ファミレスに着くまでのあいだ幼い僕はずっと俯いたままで、コイツも一切口を開かず、親子二人は一言も口を聞かなかった。

 なんて哀れで寂しい親子関係なのだろう…

 30分ほどでファミレスに着き二人は黙ったまま席に座った。

 コイツがメニューを手に取り幼い僕に差し出す。

「凪、好きな物を選べ」

 幼い僕はメニューを広げてお子様ランチとハンバーグを見比べ、1分ほど迷ったあとハンバーグを指さした。

「何だ、色々あるのにハンバーグか?」

 そもそも6歳の子供にファミレスのメニューを見せても選ぶのは大体決まっているだろうに…なんだコイツは。

「これがいい」

 幼い僕は、俯いたまま頑なにハンバーグを指さしていた。

 注文した料理が届き二人は食べ始めたが、相変わらず互いに何も語らず沈黙したままだった。

 先にコイツが食べ終わり、幼い僕が食べている様子を黙って眺めている。

 ここで幽体の僕はあることに気付く。
 顔こそ豹変してしまっていたが、幼い僕を眺めるコイツの目が、表情が、僕の記憶に微かに残っている優しかった頃の父親になっていたのだ。

 俯いたままの幼い僕はそれに気付かない。

 幽体の僕はこのあと自分の身に起こる出来事を知っている。だからコイツの見せた目と表情の意味が分からず動揺した。

 食べ終わるとコイツが話しかける。

「凪、美味かったか?」

「…うん」

 幼い僕は俯いたまま頷く。

 二人はファミレスを出て、季節的に冷えている車内に乗り込んだ。

[暗い山道で]

「凪、暫く寝てて良いぞ」

 コイツが幼い僕を寝かそうとする。

「…うん」

 ファミレスで食べたハンバーグは大人サイズで腹がいっぱいになり眠くなっていたのだろう。幼い僕は10分と掛からず助手席で熟睡を始めた。

 コイツは車内のラジオをつけ、アパートと真逆の方向に車を走らせた。
 そのうち民家も街灯も無い山道に入りどんどん登って行く。

 30分ほど暗い山道を走り、農家が使っている納小屋で車は止まった。
 幽体の僕はこの納小屋に見覚えがあり、コイツと話した最後の場所であることを思い出す。

「ふぅ…凪、起きろ」

 幼い僕の肩にコイツが手を乗せ、身体を揺らして起こす。

「ん…」

「凪、車から降りろ」

 幼い僕は寒空の下、暖房で暖まった車内から瞼を擦りつつ外に出た。

 コイツは後部座席に置いてあった小さなリュックを手に持ち車から降りる。

「これを背負うんだ」

 そう言って幼い僕に小さなリュックを渡すと、言われるがまま黙って背負った。

「良いか凪、これからオレが言うことをしっかり聞けよ」

「…わ、わかった」

「そうだな。まずは…喜べ、ここでオレとはお別れだ」

「………」

 父親からこんな衝撃的な話が出たら、普通の6歳児は泣いて問いただすだろう。
 だけど幼い僕はファミレスの時と同じく俯いたまま、顔を上げずに黙って聞いている。
 ひょっとしたら寝起きで頭が回っていないのか、怖い父親と離れることが嬉しいのか、ここで何を考えていたのかは良く覚えていない。

「あそこに明かりの灯った家が見えるだろ。顔を上げて見るんだ」

 コイツはそう言って、今いる場所より高いところに位置する明かりの灯った一軒の家を指差した。
 幼い僕はようやく顔を上げて、指差す明かりの方向を見て位置を確認する。

 何も言わずにコイツがリュックから懐中電灯を取り出し、点灯させて幼い僕の手に持たせた。

「オレはお前をここに置いて一人でアパートに帰る。あの家まではお前の足でも30分ほどで着けるだろう。でももし何かあったら、この納小屋で一晩過ごすんだ。良いか、わかったな?」

「…う、うん、わかった」

 幼い僕がそう返事をすると、コイツは優しい笑みを浮かべた。幽体の僕はこの時の顔を覚えていない。

「よし、じゃあ行け!凪。お前の人生はこれからだ」

 そう言って背中をちょんと押して前に進ませた。
 幼い僕は、車一台がようやく通れるような舗装されていない道を歩き始める。

 こうして僕はコイツに捨てられた。

 幽体の僕はこのあと自分がどうなるのかを知っている。

 気になっていたのは、僕が知らないこのあとのコイツの行動だった。

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