[走馬灯のように]
「ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…」
狭い個室に心電図の安定した音だけが響き渡る。
僕は、病院のベッドで静かに呼吸しながら眠る僕を眺めていた。
ベッドのすぐ横には、短めで癖の無い黒髪の少女がパイプ椅子に座ったまま眠っている。
彼女は幼馴染みの永山千恵里(ながやまちえり)。
言い方が悪いかも知れないけれど、小学一年生の頃から腐れ縁が続き、今では高校三年生になっていた。
同じく高校三年生の僕は、和久井凪(わくいなぎ)。父や千恵里からは下の名前で「凪」と呼ばれている。
録画した動画などで自分の姿を見ることはあったが、生?で客観的に眺めるのは初めてだった。
日頃からほったらかしの僕の黒髪は、普段の三割増しでボサボサになっている。
こんな視点で僕自身を眺めることが出来るようになったのは、この現象が起こる寸前まで見ていた夢が覚めた時だった。
それは、小さい頃から何度も見ている同じ夢。
一人の女の子がいつも決まった言葉で話し掛けて来る。「いつの日かわたしを探してね」…と。
初めて夢を見始めてから10年以上経った今も、彼女の顔ははっきりと覚えられない。ずっとずっと、蜃気楼のようにぼやけた姿で現れるからだ。
長いあいだ内容の変わらない夢だったけれど、ただ一つだけ変化していることがあった。
僕の成長に合わせるかのように、彼女の姿も大きくなって行ったのである。
さっきまで夢に出て来た彼女は、今の千恵里くらいの身長がありった。
そして、夢の終わりに彼女はこう言った。「お願い。生きて」…と。
僕はハッとして目覚め、最初に目にしたのがベッド静かに眠る僕の姿だった。
身体がふわふわと宙に浮いている感覚があり、自分の身体が透けて見える。俗に言うところの「幽体離脱」なのかも知れない。
でも、自分がなぜ病院のベッド眠っているのか、どうしても思い出せなかった。いや、それだけではなく、ここ一週間ほどの記憶が頭の中から綺麗に消えている。
僕がどうやって記憶を取り戻そうか考えていると、ガチャリと部屋のドアを開ける音がして、手提げ袋を持った父が入って来た。
父はその手提げ袋を棚の上に置き、ベッドに近づいて僕の様子を窺う。
暫くして僕から目をそらし、眠っている千恵里の肩を軽く叩いて呼びかける。
「千恵里ちゃん、起きてくれ」
「ん…」
千恵里が瞼を擦りながらゆっくりと目を覚ました。
「あっ、おじさん。すみません、いつの間にか寝てしまったみたいで」
「いや、全然構わないよ。それより今日はもう帰りなさい。外はだいぶ暗くなってしまった」
「わかりました。今日はこれで帰ります。また明日、学校が終わってから凪の様子を見に来ますね」
「ありがとう、千恵里ちゃん。気を付けて帰るんだよ」
「はい。ではこれで失礼します」
そう言って千恵里は部屋を出て行った。
父がパイプ椅子に座り、眠っている僕に話し掛ける。
「凪、お前にあんな事があって、意識を失ってからもう一週間が経つな。そろそろ声を聴かせてくれないか?」
そうか、僕は一週間も意識の無い状態なんだな…
眠っている僕はピクリとも動かず、父の期待に応えようとしない。
「父さん!僕はここに居るよ!」
存在を知らせたくて叫んでみたが父の反応は無く、今の僕の声は全く届かないようだ。
悲痛な表情を浮かべて僕をジッと眺めていた父が、小さく首を振って椅子から立ち上がる。
「明日は朝早くから仕事が入っているんだ。悪いが今日は帰るぞ。凪」
何も悪いことなんか無いよ。父さん…。
記憶に無いから確信は無いけれど、こんな状況になってしまったのはきっと僕の自業自得なんだと想う。
部屋を出て行く父の後ろ姿は酷く寂しそうに見えた。
一人取り残されたこの部屋では特にすることも無い。
病院の屋上に行って星空でも眺めるか。今なら天井とかすり抜けられるかも知れないな…
試しに少し天井に頭をぶつけるような感じで浮上してみた。
結果、天井に頭はぶつからず、頭の一部が天井にのめり込む。
「おわっ!?本当にすり抜けられるのか!?」
今度は2mほど浮上するつもりでやってみると、天井と上の階の床をすり抜けた先は、別の患者が居る部屋になっていた。
ベッドに座る女性の患者と、彼氏らしき人が楽しそうに会話をしている。
何だか覗き見しているみたいで申し訳ない気持ちになり、そこからいくつかの部屋を一気にすり抜け屋上まで浮上した。
一瞬と言って良い程の速さで屋上に着き、上空に目を向けると、満天の星空で数多の星達がキラキラと輝いている。
「小さい頃は父さんと良く眺めていたよなぁ…」
父と幼い頃の僕が山の上で星空を眺めている過去の思い出が頭に浮かぶ。
そんな懐かしい思い出に浸っていると、眼前に小さいスーパーボールほどの眩い光球が忽然と現れた。
光球は僕の手が届く距離で人魂や火の玉のようにゆらゆらと揺れながら浮いている。
好奇心にそそられ、ゆっくりと光球を両手で包み込んだ瞬間!
光球が爆発したかのようにカッ!と閃光を放ち、その光を浴びて僕の身体は掻き消された。
そして、走馬灯でも見るかのように、今まで出会った人や経験した場面が次々と目に飛び込んで来る。
もしかして僕はこのまま死んでしまうのだろうか…
だめだ!僕はまだ死ねない!死にたくなんかない!
心の中で必死にそう叫んだ。
すると場面がパッと止まり、さっきまでの幽体のような状態に戻ってその空間に留まった。
「こ、ここは…」
見覚えのある古びたアパートの一室。
ただ、絶対に二度と戻りたくなかった場所。
この部屋は、僕が生まれ、6歳になるまで生活していた場所だった。
当時の記憶が蘇り、無いはずの心臓の鼓動が高鳴る。
ここには良い思い出なんて一つもない。
血の繋がった父親にずっと虐待を受けていた場所で、地獄の日々を送っていたのだから…
[アイツが変わってしまった日]
アイツはこの六畳の狭い居間で、たまに仕事で外に出ている時以外は、いつもテレビや新聞を読みながら酒を呑んではくだを巻いていた。
僕はそれを見るのも聞くのも嫌で嫌で仕方が無くて、隣の寝室でずっと一人で遊んでいた。
時折、襖を開けては「お前は遊んでばかりで幸せだな!」などと、幼児に言うには到底相応しく無い言葉で怒鳴り散らし、殴ったり蹴ったりして来る。これが延々と繰り返される毎日。
こんな父親を恐れない幼児などこの世には居ないだろう。
どうしようもない父親だったが、恐らく最初からそうだった訳でも無かったような気がする…
なぜなら僕には、笑っているアイツに肩車をしてもらい、隣には笑顔の母が居て、三人で河原の道を歩いた記憶があるからだ。
母のことは朧げであまり覚えていないけれど、優しくて温かな人だったと想う。
僕が5歳の時までここで一緒に生活していた母は肝臓癌で亡くなったらしい。
母が入院していている病院に、アイツと一緒に車に乗って何度も訪れた記憶がある。いま想えば、病気で身体を起こすのもきつかったはずなのに、いつも笑顔を見せてくれていた気がする。
当時の僕は人の死というものを、幼いから当然と言えば当然なのだが、全く理解することが出来なかった。
だから「お母さんは何処に行ったの?」、「いつになったら帰って来るの?」などと、毎日のようにアイツに質問を浴びせかけていたのだが、ある日を境に質問をすることは無くなる。
アイツが「お母さんが死んで辛いのはお前だけじゃ無いんだ!」と言って僕を本気で殴ったからだ。それからだったのかも知れない。幸せだったはずの親子の関係性はガタガタと崩れ、狂気の日々に変わってしまったのは…
アイツが変わってしまったのは僕の所為でもあったが、母の死が重大な原因であったことは間違いない。
だから暴力を振るわれる度に、布団に包まり泣き腫らしては「なんで死んだんだよお母さん!」と心の中で何度も叫んでいた。
母だって病気になりたくてなった訳ではなく、死にたくて死んだ訳でもないのに…
だが、理由は何であれ、アイツが幼い僕に長いあいだ振るった暴力は絶対に許されないし許さない。絶対にだ!
過去を思い出していた僕は、ふと我に帰る。今はいつなんだ?
部屋の中には薄っすらと記憶に残っている当時の古いテレビやテーブル、棚などの備品があった。
タバコのヤニで汚れた壁に大きなカレンダーが掛けてあるのを見つけ、近寄って確かめる。
カレンダーには西暦XXXX年11月の記載があり、日付の20日は赤いマジックで囲まれ、「最後の日」と書かれていた。
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