[冷泉樹(れいせんいつき)]
その依頼主から人力車に乗せて行くように言われたのが鮫島家の営む呉服屋。
呉服屋に依頼主様を降ろし、待っているあいだに店の手伝いに現れたのが、鮫島家のお嬢様である江さんだったのだそう。
嘘のような話だけれど、先に一目惚れしたのは江さんの方だったらしく、お昼時になると加賀美家の外までお弁当を持って来ていたそうだ。
「なるほどぉ。それで伊達さんは江さんとの結婚は考えてるんですか?」
「へへへ、お嬢様。結婚はしたいですけどまだ先の話しですよ」
「えっ!?何か先送りにしなきゃならない理由でもあるの?」
「…俺が江のやつと結婚したら、あの呉服屋を二人で継ぐことになるんですよ。だけど俺はまだ加賀美家の俥夫でいたいんです。せめてお嬢様が学校を卒業するまでは」
わたしが学校を卒業するのは来年になる。なら、伊達さんの結婚はそう遠くない話しかも知れない。
「そうなのね…分かったわ伊達さん。じゃあわたしが卒業するまではよろしくお願いします」
「こちらこそですよ。お嬢様」
恋愛話をドキドキしながら聞いていたけれど、伊達さんが来年いなくなってしまうかと想うと急に寂しさを感じた。
人力車はいつもよりゆっくり走っていたけれど、話で夢中になっているうちにいつの間にか加賀美家の屋敷が目の前にあり、門の方へ目を向けると真琴さんと袴姿の若い殿方が立っているのが見える。
あれは誰だろう?試合の申込みだったら今日は色々あったから勘弁して欲しい…などと考えているあいだに人力車は到着してしまった。
「お帰りなさいませ~お嬢様!」
真琴さんがいつもの笑顔で迎えてくれたけど、わたしと同じ歳頃のような殿方の殺気の籠った視線が気になって仕方がない。
「真琴そちらの殿方は?」
「あっ!こちらの方は…」
「冷泉樹(れいせんいつき)という者だ!お主が女だてらに剣の達人という噂を聞きつけ、試合の申込みに参った!」
なんだなんだ!?初めて会うというのにこの交戦的な態度は!?これではまるで道場破りだ。
「そうですか。残念ですけど今日は色々あって試合をする気になりません。どうか尋常にお引き取り下さいませ」
こんな無礼な殿方に礼節を尊ぶ気など更々なかった。
しかし、冷たく言い放てば早々に退散してくれるだろうと踏んでいたわたしの思惑は、ものの見事に外れてしまう事になる。
「ほう、加賀美司とあろう者が試合の申込みをされ闘わずして逃げるのか?噂は所詮くだらない嘘だったようだな!」
カッチーン!
本日二度目の怒りが込み上げて来た。
[想わぬ展開]
いや待て加賀美司!怒りに任せて行動するのは簡単だけど、剣士たる者は常に冷静でなければらないと反省したばかりではないか!
辛うじて自分にそう言い聞かせる。
「ふ~…そんな挑発には乗りませんよ。あなたの思い通りに動いて差し上げるのは時間の無駄というものです。では、お引き取りを」
よーし!冷静になって言えたぞ。
この無礼者は今度こそ帰ってくれるだろう。
「噂を聴いて喜び勇みつつ、単なる腕試しで来てみたのだが…残念だよ。加賀美司」
お、いいぞいいぞ。この場を立ち去る感が出て来ている。相変わらず呼び捨てにされるのは腹が立つけれど。
このままの流れなら本当にこの場から居なくなってもらえそう。
「何だ。単なる腕試しなら俺が相手になってやるぞ」
のわっ!?どこからともなく師匠の声が聴こえた。
また余計なことをしてくれちゃいそうだな…
「誰だ!?姿を見せろ!」
冷泉という殿方がその声のする方へ呼びかけると、木刀を片手に持った師匠が、門の裏からもったいぶるようにゆっくり姿を現した。早く出てくれば良いのに…
「小僧、そこの加賀美司は独自で師範こそしているが、まだまだ俺を超えられない弟子だ。つまり俺と勝負して勝てば、我が弟子より強いことの証明になるぞ。どうだ、一勝負やってみるか?」
「やる」
師匠の悦に入った長台詞に対して、冷泉は顔色一つ変えずにたったの二文字で即答した。
流石の師匠もこれには一瞬固まったように見えたがすぐに口を開く。
「フッ、よかろう。だが外で試合をしては目立つ故、場所を道場に移すぞ。俺の後ろをついて来い」
「わかった」
思わぬ方向へことが進み、わたしは師匠と得体の知れない殿方の試合を是非とも見たくなった。
「師匠!わたしも着替えて道場に行きます。立会人も居た方が良いでしょうからそれまで待っていて貰えないでしょうか?」
「うむ、それもそうだな。では急いで着替えて来るがいい」
「はい!」
こうしてわたしは着替えのために部屋へと向かい、師匠と冷泉の二人は道場へ歩いて向かった。
部屋へ入り道着に着替えながらふと想う。
よく考えれば師匠がわたし以外の誰かと闘うところを見るのって、小さい頃に盗賊達から救ってもらった時以来ではないだろうか…
実際に対峙して試合をするのと、師匠と第三者の試合を客観的に観るのとでは学べることが違うかも知れない。
着替えが終わり道場に着くと、真琴さんが神妙な面持ちで入り口に立っていた。
「真琴さんも二人の試合を観に来たんですね」
「あ、はい。奏様が司様以外の方と試合をするのは初めてだから心配で…」
「フフフ、それは無用な心配というものですよ真琴さん。人格はともかくとして、師匠は間違いなく日本で最強の剣士ですから」
余り師匠を褒めたくはないけど素直にそう想っている。
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