「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
早朝の気持ち良い時間帯だというのに、わたしは必死になり坂道を走っていた。
会社への社会人として記念すべき初出勤当日に、あろうことか寝坊してしまったのである。
寝坊の理由は有りがちな目覚まし時計の電池切れ。
目覚まし時計を責めるべきか、電池を責めるべきかで悩んだけれど、結局は自身の備えが悪かったという結論に至った。
想えば大学在学中に阿呆ほど頑張った就活。
望んでもないのに幾度も飛んで来る不採用の通知砲。
面接官のどうでもいい質問に対応しては疲れ。
風呂に入りながら面接官の顔や表情が浮かんで無駄な時間を過ごす。
時には悔し涙を流しながら「馬鹿野郎!」と叫ぶ。
ダメージの蓄積で精神が崩壊寸前になったこともある。
リミットギリギリでわたしを救ってくれたのは、今まさに全力で向かっている「やしあか株式会社」。
変な名前の会社だけれど、ピンチのわたしを救ってくれた唯一無二の会社。
その会社の看板が、否、正確には会社の運営する施設の看板が見えて来た。
看板には「やしあか動物園」の文字が大きく表示されている。
そう、わたしが就職した「やしあか株式会社」は、日本に数える程しか無い動物園の運営会社なのだ。
ようやく事務所の入り口に着き腕時計を見て時間を確かめる。
「ふへ~、な、何とか間に合ったぁ」
社会人になった初日に遅刻するという不名誉なことは何とか回避できた。
わたしの職種は「飼育員」、だからOLのように化粧はしていない。
故に大量の汗を掻いたからといって化粧が落ちることは無かったけれど、いつもは綺麗に真っ直ぐ整っている自慢の黒髪がボサボサな事態に。
背負っているリュックを地面に降ろして、手鏡を取り出し手櫛でサッと整えた。
「ガチャ!」
不意に事務所入り口のドアが開き、何度か会った事のある人物が顔を出す。
「あ!?しゃ、え、社園長!お早うございます!」
面接と研修でお世話になったやしあか株式会社の社長であり、やしあか動物園の園長でもある瀬古修一郎さんだった。
「お早うございます、黒川紗理亜さん。僕のことを呼ぶときは園長でお願いします」
「了解です園長!」
「それと、事務所に入ってすぐ右にタイムカードが置いてありますので」
園長は園長という肩書の割に若く見える。 まだ年齢を訊いたことがないけれど、わたしの見立てでは20代後半くらいのクールなイケメン。
事務所に入りタイムカードを押して前を向くと、数人の従業員がこちらに注目していた。
「はい、みなさん。注目しているようですがもっと注目してください。今日から皆さんと共に働いてくれる黒川紗理亜さんでーす」
棒読み、抑揚のない感じで園長が紹介してくれた。
「ご紹介いただきました黒川紗理亜です!年齢は22歳。趣味は読書と占いです!一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします!」
従業員の皆さんが微笑みながらパラパラとした拍手をくれる。
緊張して普通の事しか言えなかったけれど、元気良く無難に自己紹介できた…かも知れない。
「久慈君、彼女にデスクとロッカーの場所を教えてください。黒川さんはその後で園長室に来るように」
「はい!園長室ですね。分かりました」
園長室には面接の際に一度入った覚えがある。だから大丈夫!
眼鏡を掛けた若い男性がつかつかと歩き、わたしの傍までやって来た。
「初めまして黒川さん。園長から君の教育係に任命されている久慈公彦です。暫くのあいだは僕が仕事を教えて行くからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします!至らないところがあるかと思いますがご指導ください!」
人を見た目で判断してはいけない。でも、久慈さんの顔は優しそうで少しホッとしている。
「これが君のデスクだ。一通り揃っているとは思うけど、もし必要な物があったら総務の人に言えば準備してくれるよ」
「ありがとうございます!大切に使います!」
特にデスクワークが好きなわけではないけれど、わたし専用のデスクにはパソコンも置いてあり、何だか社会人っぽくてテンションが上がる。
事務室の奥に進んで久慈さんがドアを開けると、ロッカーがずらっと並ぶロッカールームになっていた。
「黒川さんのロッカーはこれ。出勤したらまず荷物をここに入れるといいよ。はい、これが君のロッカーのカギ」
わたしは小さい2本のカギを両手で受け取り会釈する。
「あ、そうそう、この中に君の作業服が準備してある。園長の要件が済んだら、着替えて事務室の僕のところまで来てくれるかな?」
「了解です!じゃあ園長室に行って来ますね!」
園長室は事務室を挟んでロッカールームとは真逆の場所にある。
ドアの前に立ち「コンコン」とノックすると、園長の声がドア越しに聞こえた。
「どうぞー」
「黒川です。失礼します!」
中に入ると目の前にはガラスのテーブルがあり、テーブルを挟むようにしてソファーが二つ置いてあった。
その奥の園長専用デスクに園長が座わって書類を整理している。
気のせいかも知れないけれど、他の部屋と違い、わたしはこの部屋に異様な空気を感じていた。
「黒川さん、そこのソファーに掛けてください」
「はい、失礼します」
ソファーは柔らかくて座り心地が抜群に良かった。きっとかなり上等な物なのだろう。
丁度一段落したのか、園長が書類を置きわたしの対面に移動して座った。
この人は笑うことがあるのだろうか?と思うほど沈着冷静な表情のまま園長が話す。
「君に動物園で働いてもらう前に、済ませておかなければならない事があります。そうだな…黒川さん、君って魔女でしょ?」
「えっ!?」
わたしは園長の問いかけに「えっ!?」とだけ口に出したけれど、心の中では「えーーーーーーーーーーーーーーっっっ!?」と高らかに叫んでいた。
何を隠そう、わたしは魔女の血を引き継いだ正真正銘の魔女。家族はもちろん周知の事実だけど、他人には知られずにここまで上手く生きて来た。園長はなぜわたしが魔女である事を知っているのだろうか!?返答次第ではクビになってしまうのだろうか!?混乱する思考の中で最善の一手と思った言葉を発する。
「ど、どういう事でしょうか?」
コメント