「もうすき焼きの方はお召し上がりなれると思いますので、お好みでそちらの卵を使ってください」
若女将(仮)がそう言って僕達の場を去ったあと、未桜は即座に土鍋の蓋を開けた。
土鍋の中はすき焼きのスープが沸騰グツグツと音を立てて沸騰しており、美味しそうな牛肉や椎茸、白菜や人参などの野菜たちが小躍りしているかのである。
「わぁ♪美味しそう♪」
「よし、めちゃくちゃ腹も減っていることだし、ビールがまだだが食べてしまおう!」
「うんうん♪食べよう食べよう♪」
僕達は「お好みで」と勧められた卵を躊躇なく割ってお椀に投じ、職人が手作りで作ったであろう上等な箸をグルグルと高速させ大急ぎでかき混ぜた。
ところで、すき焼きのお供としてすっかりお馴染みの卵だが、いったいいつ頃から生卵を使って食すようになったのかご存知だろうか?
所説あるらしいのだが、どうやら江戸時代後期が有力なようである。
といっても、当時は現在のような完成形の「すき焼き」の姿ではなく、様々な料理名で呼ばれていたらしいのでハッキリとしたことは分からないという結論に至る。
自分で振っておいてなんだけれど、なんともしまりのない答えになってしまって申し訳ない。
などとまたもやどうでも良いことを考えている間に、僕の視界に入っている助手でうら若き乙女の鈴村未桜は、大量の牛肉を一気に口の中へ放り込み、まるでリスのように頬を膨らませ、口の端から黄色い生卵の一筋を覗かせていたのだった…
「助手よ、たったの一日で乙女の恥じらいという希少なものを惜しげもなく捨て去ってしまったようだな」
僕は決して、土鍋の牛肉がごっそり無くなっていることに怒っているのではない。いや、少しくらいは怒っているのかも知れないけれど、嫌みを言わなくては気持ちが収まりそうになかったのである。あ、やっぱり僕は彼女に対してかなりの怒りを覚えているようだ…
「ほべ~ん、ほばはばぶびふびへひゃばばっははばぁ」
お前はどこの世界の言葉で喋っているのだ。
というか。
「ったく、口に食べ物を詰め込んで喋らんでいい。何を言っているのかさっぱりわからん。いいか、僕が今から鍋に投入する肉に手を出すんじゃないぞ」
未桜はブンブン頭を立てに降り無言で了承し、僕は皿に乗った追加の牛肉を思い切って半分ほど一気に箸でつまみ、スープが飛ばないよう気を付け厳かに鍋へと入れ込んだ。
すき焼きの主役は牛肉をおいて他には存在しないのだけれど、野菜や豆腐、糸こんにゃくなどの脇役たちもそれぞれ個性を光らせているわけで…
「最初の一口は…うむ、これに決まりだな」
独り言を呟きながら選んだ最初の一品は、すき焼きには欠かせないキノコの椎茸であった。
たまに「そこが嫌いだ」という人も居るのだが、僕は椎茸の食感と、噛めば旨味が滲みの出る瞬間がたまらなく好きなのである。
「こ、これは…ことのほか美味いな…」
井伊影村地産の大きめな椎茸は、良い意味で椎茸なんでどれも同じであろうとたかをくくっていた僕の予想を超ええ、そのじんわり滲み出る味と食感によって舌に個性を訴えて来た。
椎茸のおかげでイラついていた気分は一転し、僕は自然に次なる食材に手を伸ばす。
気を抜いて箸で崩れてしまわぬよう慎重につまんだ食材は、これもすき焼きとくれば外すわけにはいかない庶民の味方、はるか昔に唐から伝わった豆腐である。
日本人であればほとんどの方が御存じのとおり、自然が直に生み出す椎茸などとは違い、人の手によって作り出される食材であるけれど、木綿豆腐、ソフト豆腐、絹ごし豆腐、充填豆腐などの四種に大別され、やはりそれぞれに特徴があるらしい。
すき焼きに入れる豆腐を選択するなら木綿豆腐か絹ごし豆腐が妥当なところだろうか。
「おほっ、やわいやわい」
豆腐は冷ややっこに醤油をかけてストレートに食べるのも好きだが、すき焼きに入った豆腐はまた格別に美味いと感じるのである。
そして椎茸も豆腐も、いや全ての食材がといだ生卵と悩ましくも絡み合い、他の料理では中々味わえないハーモニーを醸し出すのだ。
一時的にでも乙女の恥じらいを捨てさった目の前の助手は、僕が食材の味を楽しんでいるあいだに糸こんにゃくをそうめんを食べるがごとく、ズルズルと啜っているのだった…
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