「よっこらせっ」
最近はあまり耳にすることのなかった掛け声を漏らして、老爺が木製の床に落ちた八恵さんの入歯を拾い上げ、驚くことに自分の首に巻いていたタオルで入歯を拭き始めた。
親切心は理解できるのだが、流石にそれはちょっと引かざるを得ないような…
「ほれ、八恵さんや」
「ふぁひ」
入歯を受け取った八恵さんは、その行為を直視していたのにも関わらずそのまま口の中へ入れてモゴモゴと動かし、無事に再び入歯を装着するに至った。
「お婆さんごめんなさい。わたしは早く温泉に浸かりたくてただ起きて欲しかっただけなんです。驚かす気はこれっぽっちも無かったんです。信じてくださいぃ」
自分の犯した罪に気付いた未桜が「目をウルウル」とまではいかないけど、若干涙目になりながら毎度お馴染みの懺悔タイムに突入する。
なんだかぁ…行動を起こす前に己が取ろうとする行動の結果を予測できないのだろうか…
「お嬢ちゃんは悪くないけぇ気にせんでええよぉ。悪いのは仕事中に居眠りしてた儂なんだからぁ」
その通りだと思うのだけれど、未桜の行為を「正当防衛」というもので例えるならば、明らかに度を超えた「過剰防衛」であり、八恵さんが仮に心臓に疾患を持った人だったとしたら、下手をすれば殺人罪に問われる事態に成りかねなかったかも知れないのである。
そう考えると、やはり負い目を感じてしまうのが常人というものではなかろうか…
何気なく「常人」という言葉をあまり深く考えずに使ってしまったけれど、少しばかり、否、大いに僕とは縁遠く不適当な言葉だったかも知れない。
「常人」なる単語は調べるまでもなく、「特に変わったところのない普通の人」という意味であり、僕がそんな極素朴過ぎる言葉が似合うような人間である筈がないのである。
今回のケースの場合、「超人」という言葉が適当だったのかも知れない…いや、僕は馬鹿か?ここはきっと「善人」という言葉が適当であったろう。
などど、優秀で貴重な僕の頭脳を実にくだらない思考で浪費するをやめ、番台に座る老婆の隣に目線を移すと、さっきまでそこに居た未桜の姿がないことに気付く。
「嬢ちゃんならもうとっくに行っちゃったでぇ」
戸惑う僕を見かねたのか、よく喋る御親切な老爺が「女湯」ののれんを指差して教えてくれた。
そうだった。早く温泉に浸かり、夕食の時間りに間に合うよう民宿へ戻らなければならない。
「あの、これ二人分のお代です。申し訳ありませんが時間がないのでこれで失礼させてもらいます」
僕は番台に座る八恵さんの目前に千円札をさっと置き深々と一礼したあと、名も知らぬご親切な牢屋にもペコリと頭を下げ、「男湯」ののれんをそそくさとくぐったのだった…
頑張っても精々5、6人くらいしか入れないであろう窮屈で狭い脱衣所で服を脱ぎ、肩に一枚のタオルを掛けて天然温泉のある浴場の入り口を開ける。
「なっ!?」
浴場へ足を踏み入れようとして僕の足は無意識に止まり絶句した。
井伊影温泉の表から脱衣所まで、古臭さと歴史を感じる施設の劣化が際立っていのだが、浴場は僕の想像を遥かに超え真新しく綺麗で広かったのである。
恐らくはここ一年の間で改修されたのであろうことに疑いの余地は無かった。
まぁそんなもの疑ってもしょうがないのだけれど…どうせ改修工事をするなら脱衣所も一緒にするべきだったのでは?などと思いつつ、シャワー付きの蛇口の前にある黒く、これまた真新しい風呂椅子に腰掛け、蛇口の横に置いてあったボディソープを使って勢いよく身体の洗浄を始める。
僕はとにかく身体を綺麗にして早急に温泉に浸かりゆっくりしたかった。
身体を垢すりで少々ざつに擦ると、いつもなら直ぐに洗い流すのだけれど、今回はその動作を省き頭の洗浄に
着手した。
そしてシャワーほぼ全開で開放し、熱々だが激しい豪雨の如き強さのお湯で一気に洗い流す。
「これでよし!いざ!天然温泉へ潜水!」
久々の旅先での温泉、しかも今この場には僕の他には誰もいないらしく、まるで子供のようにはしゃいでしまっている僕は、深さの確認もせずに水面目掛けて頭から飛び込んだ!
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