民宿むらやどの若女将(仮)さんが言っていた通り、天然温泉の在るという施設へは徒歩で丁度5分ほどで着くことが出来た。
手前勝手ながら「温泉センター」のようなある程度は大規模な施設を想像していたのだけれど、辺境の地と云っても差し支えないであろう過疎の進むこの村に、大人数を集客できる施設があるわけもなく、普通の住宅を2軒並べた程度の規模の温泉施設であった。
ただ、入り口の戸の上部には大木を使用して作られたであろう、古臭さは否めないものの立派で歴史を感じさせる看板に、黒くて極太い文字で「井伊影温泉」と彫られている。
「目新しさは全くもって感じないが、これはこれで味があるってもんだよな…」
「わたし的には近代的な建物よりこっちの方が断然好みだなぁ♪」
井伊影温泉の入り口前に突っ立ったまま、僕達はそんなありきたりな会話を交わした。
未桜とは労使関係の立場で数年来の付き合いになるけれど、何故だか僕はふと思う。
第三者からすれば今の僕達って恋人同士にも見えるだろうか?と…
おっと如何如何!
未桜は僕にとってちょっぴり大事な助手であり、仕事上のパートナーであって恋愛対象として見る訳にはいかない。というか、形はどうあれ一応「可愛い」女性ではあるけれど、そもそも僕の理想像とはかけ離れ過ぎている。
こんなことを想ってしまうのはきっと疲れている所為だろう…
僕は頭の中の変な邪念を振り払おうと、もげてしまうのかと思うほど首を横にブンブン振ったのだった…
そんな馬鹿みたいな僕の様子を、不思議そうな顔で下から覗き込むように眺めている未桜。
まずい、何か感づかれたかも知れない。
「ねぇねぇ、こんなところで立ち止まってないでサッサと中に入ろうよぉ。時間もあんまりないんだしぃ」
OKOK、全然セーフだ。
何も案ずるようなことはない。未桜の言うようにサッサと温泉に浸かって汚れた心身ともに清めようじゃないか。
僕達が入り口の戸を開き中へ入ると、予想していたよりも若干広めの玄関を上がった直ぐ先にある、昔の銭湯にありがちな番台では老婆コックリコックリと首を縦に振りうなだれていた。
眠そうではなく、しっかり確定的に眠っている。
しかし、今日は様々な「老婆」に会うものだな…
過疎化している僻地の村なのだからそりゃそうだろとも思うのだけれど、新しく現れる登場人物がこんなにも「老婆」だらけで良いのだろうか?
ん!?まてまて、僕はいったいなんの心配をしているんだ?
などと思っている間に、左手にある「男湯」ののれんをのっそりとかきわけ、ふにゃふにゃな顔をした老爺(ろうや)が現れ、番台で居眠り真っ最中の老婆に声をかける。
「八恵さん、起きんかい。若いカップルのお客さんが目の前に来とるでぇ」
「カップル」という言葉はスルーするとして、老爺の声は普通の音量だったと思うのだが、耳が遠いのか、はたまた眠りが深いのか、「八恵さん」と呼ばれた老婆はなかなか起きてくれない。
こうなってくると黙っていないのがうちの元気活発な助手である。
「事故との遭遇」直前とでも言うべきだろうか、僕の優秀な頭脳と極一般的な心臓を単純に嫌な予感が走り、横にいた未桜を制止しようと動いたのだけれど、時すでに遅し、彼女は番台で気持ち良さげに眠る老婆の隣まで素早く近づいた。
そして、嫌な方向で予想が的中してしまう。
未桜は両手を使ってまさにお手製メガホンの形をつくると、「眠り老婆」こと、八恵さんの耳元で大きな声を張り上げる。
「おっばぁーーーさーーん!!!起きてくださーーーい!!!」
「ぶぅをほっ!!??」
僕は初めて目の当たりにした。
テレビで芸人さんなどが演じるコントにあるような場面であったが、実際に目の前の至近距離で見ると物凄くインパクトがあるんだな…
人の口から入歯が飛び出す場面というものは…
僕は呆気に取られて暫く放心状態になってしたまったが、傍にいた老爺は意外なことにその表情から至って無反応を示している。
「八恵さんやっと起きたなぁ。良かった良かったハッハッハッ!」
僕にとっては息が止まるほどの衝撃的な場面だったのだが、きっとこの老爺にとってはさして珍しくない場面だったのだろう、平然と高らかに笑いながら八恵さんの肩をポンポン叩いている。
「ひらっはい、ほひとりはまごはくへんひはりはふ」
「一人五百円だと言っておるんよ」
入歯を失い、まともにしゃべる事の出来ない八恵さんの通訳を、こちらが頼みもしないのに買って出る親切な老爺であった…
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