森を抜け平坦で整った道に差し掛かった時には、辺りはすっかり暗くなり、完全なる夜の様相を呈していた。
「一輪、上を見てみて、すっごく綺麗な星空になってるよぉ♪」
ついさっきまで、乙女の恥じらいなど何処ぞに捨てて来たのではなかろうか?などと思わせるほど「お腹が減った」を何度も繰り返し悪態をついていた彼女は、星空を眺め始めた途端、まるでゾンビが人間に戻ったかの如く生気と正気に溢れていた。
無様な助手の姿なぞは、バッサリハッキリと言って余り気持ちの良いものではない。
取り敢えずは人間に戻れた事を心の中でひっそりと祝ってやろう…
「しょ…コホン、本当だな。都会で眺める星空の何倍も美しい…」
「…ハハハ、本当、だよねぇ。都会の空には悪いけれど、それ、わたしも思っちゃった♪」
これはお世辞などではなく、いつの間にか雨雲のすっかり無くなっていた井伊影村の夜空は、儚げだがキラキラと輝く星々に彩られ満天の星空と化していた。
僕と未桜は走る足を徒歩に切り替え、自然の織りなすプラネタリウムな世界を楽しみつつ、ようやくもって民宿「むらやど」まで辿り着いたのだった。
未桜が民宿の玄関を勢い良く開け、中で待っているであろう民宿の主に呼びかける。
「ただいま戻りましたぁ!荒木咲一輪とその可愛い助手でありま~す♪」
余計なことは言わんでいい…
「は~い、只今~」
廊下先の奥の部屋、当たり前だが確認したこともないので断定は出来ないけれど、恐らくは台所だと僕は想像している。
そこから聞こえた声は、午前中に初めて訪れた際に迎えてくれた老婆のものではなく、少しばかり若めの女性の声だった。
「あぁ…そっか」
「ん?」
そしてすぐに、電話で予約を入れた際に聞いた声だったことを思い出し呟くと、隣で靴を脱ぎ始めていた未桜が反応してこちらを振り向いた。
「あっ、いや、何でもない。気にしないでくれ」
「…ふ~ん」
この時、僕の方は本当に大したことではなかったのでそう言ったのだけれど、僅かに訝しげな表情を見せた彼女の脳裏には、後に僕が知ることとなるちょっとした、否、ちょっと程度ではない驚くべき事実について考えていたらしい…
と、廊下を小走りにこちらへ近づく足音が聞こえ、40代から50代くらいだと思しき着物姿の女性が僕達の前に現れた。
「荒木咲様ですね。お帰りなさいませぇ。昼間は急用で出迎えができず申し訳ございませんでした」
「いえいえ、女将さんに迎えていただいたので問題ありません」
「えっ?」
「えっ?」
女性の反応が鈍く僕も釣られてしまい思わず疑問符が出てしまった。
僕は午前中に「民宿むらやど」へ到着してから部屋まで案内してくれた老婆が女将で、勝手ではあるがこの人は若女将だと考えそう言ったのだが…
「あっ、いえ、たまたまお婆ぁ…」
「おっとぉ!何でもないんです~!それより夕飯をいただく前にお風呂に入りたいんですけど大丈夫でしょうかぁ?♪」
未桜、なぜ僕の説明を妨げる!?
まぁいいさ、僕も濡れて汚れてしまった身体で料理をいただくよりも、風呂に入って清くサッパリした状態の方がより美味しく食せるというものだ。
「あら、それは全然かまいませんよ。お二人がお風呂から上がって直ぐ料理を召し上がれるように合わせますので」
「ありがとうございます♪」
「恐縮です」
実にありがたい。
笑顔の素敵な若女将(仮)に感謝である。
あれ!?でも、この民宿のお風呂ってどんなんだったっけ?
僕は「民宿むらやど」に予約を入れる際に、ネットから情報を得たのだけれど、お風呂に関する情報をチェックするのを忘れていた。
「あのぉ、すみません。ここのお風呂ってどちらにあるのでしょう?」
若女将(仮)がニッコリとした笑顔で返事をくれる。
「お客様用のお風呂はそこの角を曲がってすぐ左手になります。でも、歩いて5分ほどの所に天然の温泉施設がありますのでそちらもお勧めしてるんですよぉ」
それを聞いた僕と未桜は目を合わせて同時に頷く。
近くに天然の温泉があることを知ったからには、ここは旅行者として堪能しない訳にはいかないだろう。
「あのう、いまからその温泉に行って来てお時間の方は大丈夫でしょうか?」
「あらぁ、八時までにお帰りになれば大丈夫ですよ」
若女将(仮)の気持ちの良い返事を頂戴した僕達は、部屋に戻って早々に着替えを準備し、汚れたままの恰好で案内を受けた温泉施設へ向かったのだった。
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