睡眠する最中、人が時折見る夢は良くも悪くも様々である。
真如はその夜、身に危険の及ぶ恐ろしい悪夢に魘され、何者かが大釜を振り回して我が身が真っ二つに両断された瞬間、ガバッと上半身を起こして目を覚ました。
額や首に流れる嫌な冷や汗を手で拭った仙女は、両断されたのが夢であったことに安堵し、ホッと胸を撫で下ろす…
仙女になる以前、人間であった頃の真如の名は「伊乃」。長年の時を経て、当の真如本人ですらその名を忘れつつあった。
雲峡と出会う寸前まで、大切な人を不慮の事故で突然亡くして絶望し、もはや生きる気力を完全に失っていた彼女は、仙女に覚醒できたことで幸せに暮らし生きている。
得体の知れぬ悪夢に魘され、死への恐怖を感じたことがそれを真に証明していた。
しかし、人生とは皮肉かつ残酷なもので、幸せな日々は未来永劫には続かない。これは人が生き物であり、喜怒哀楽の感情を持っていれば当然であり、逃れられぬ宿命とも云えようか。
仙人界の東雲湖にて、城太郎と奇想天外な出会いを得た今の真如は、久しく感じることの無かった人を愛するという喜びを大いに感じながら暮らしている。
だが残念なことに、この大いなる喜びを与えてくれた出会いこそが、真如を堕仙女とならしめたきっかけの始まりであり、その時はいよいよもって目前まで近づいていた…
落ち着きを取り戻した彼女は横に首を回し、隣で寝ていた筈の城太郎の姿が消えていることに気づき。
「あら?廁(かわや)にでも行ったのかしら…」
部屋を見回すが城太郎の姿は無い。
暫く経っても現れないものだから、真如は心配になり立ち上がろうとしたところへ。
「おっと、もしかして起こしてしまったかい?」
暗闇から浮き出たように城太郎が姿を現し、真如は声こそ出さなかったものの少しばかり驚き心臓が高鳴った。
「…いえいえ、とても恐ろしい夢を見たものだから起きてしまったの…」
真如がそう返すと、城太郎の口角がついぞ上がり不敵に笑ったように見えたのだけれど、部屋の中が暗いのと悪夢の余韻の所為だろうと思い、彼女はこれといって深く考えようとはしなかった。
「そうかい、可哀想に、それは災難だったねぇ。俺も急に目が覚めてさっき廁へ行って用を済ませたところだよ。さて、夜はまだ長い、仕切り直して気持ち良く寝ようじゃないか」
「…城太郎がそばを離れずに居てくれれば安心して寝れると思うわ…」
「ハハ、もう廁の用も済んだし大丈夫。さぁ横におなり」
「…はい…」
愛する男の「大丈夫」という言葉に安心感を持った彼女は横になり、そっと目を閉じると暫くして深い眠りについたのだった…
城太郎が隣に居ることで安心を得て眠る真如の寝顔は穏やかなものである。
今更かも知れないけれど、二人の居るこの部屋は灯り一つ点けず、戸の隙間から溢れる月の明かりが無ければ殆ど何も見えぬほど暗い。
外からは、人間界でいうところの「鈴虫」と同種であろう美しい虫の鳴き声が微かに響いてはいるものの、死んだように眠る真如の寝息が聴こえるほど静かなものであった。
だが部屋の中へ僅かに入り込む月明かりが朧げに彼女の寝顔を照らした時、何かの黒い影が月明かりを遮る。
影の正体。彼女と月明かりの間に割り込んでいたのは、隣で一緒に寝ていたと思われた城太郎が、彼女の横で立っていた為に出来たものであった。
「…父上より授かりしこの霊蟲(れいちゅう)。早速役立たせてもらうとしよう…」
真如の寝顔を見つめる美しい青年の口元が嫌な角度で曲げ、彼女に聴こえぬ程度の声でボソッと独り言を呟いた。
羅賦麻が仙人界に訪れ、城太郎と別れる際に密かに渡していた「霊蟲」とは、人間でいうところの幽霊に当たり、謂わば虫の魂魄が形成するあの世の蟲(むし)である。
実はこの蟲、仙力や魔力を持つもので有れば育成することが可能で、育成者の意思によって様々な形に変化し、強力な能力でも植え付けられるという摩訶不思議で特殊な蟲であった…
城太郎が握っていた右拳を目の前で開くいた掌には、まるで蛍のように光を放つ小さな虫が動かずじっとしたまま乗っていた。
霊蟲の大きさは蛍とほぼほぼ変わらないけれど、放つ光は青白く、霊蟲本体そのものもす青白く透けており、その姿は幻想的で美しい飾り物とすら云えたかも知れない。
霊蟲を一目だけ確認した城太郎は拳をもう一度握って身を屈め、空いている左手を寝ている真如の頬に寄せ、閉じた口を無理矢理開かせた。
「っ!?」
熟睡中に突如として感じた違和感に真如の脳が反射的に反応して目が開き、その目の映った城太郎の怪しい表情に彼女は驚き何かを言おうとするが声にならない。
「愚かな仙女だ…まぁ不運だったと諦めな」
城太郎の手によって強引に開られた真如の口に、彼は右手の指で掴んだ霊蟲を放り込み喉の奥へと押し込み、彼女が吐き出さないよう今度は左手で口を塞ぐ。
「んぐぅぅぅ………..」
暫くのあいだ真如は城太郎の手に抗おうともがいたが、怪力を誇る彼女の上をいく城太郎の力を跳ね除けることは叶わず、とろんとした気力を感じない目付きに変わり、身体を動かし抗うことをやめてしまった。
「ほう…効果的面だったようだな。やはり父上より授かった霊蟲に間違いはなかった…」
亜孔雀(城太郎)の父であり魔王でもある羅賦麻が育て上げ、息子に渡したこの霊蟲の能力。それはズバリ「洗脳」と「心操」であった。
真如の喉に無理矢理押し込まれた霊蟲は、人の体内において食道を通らず、なんと血管を流れる血液に溶け込み脳へと達し、大きく分けて「大脳」「小脳」「脳幹」と呼ばれる部位のうち、主に思考や判断し行動する機能を司る「前頭葉」、主に知覚や感覚を司る「頭頂葉」、視覚を司る「後頭葉」、聴覚や記憶を司る「側頭葉」の4つの領域がある大脳を支配してしまうのである。
人の脳を支配した霊蟲をさらに操れる者は育成者となる。
しかし今回の場合、その育成者は亜孔雀ではなく羅賦麻であり、仕掛けたは良いが結局真如を操れることは不可能ではないか?などという疑問が浮かぶかも知れないけれど、そこは魔王のくせに抜け目のない羅賦麻が、霊蟲が育成者(所有者)を亜孔雀だと認識(反応)するよう手を加えていたのである。
体格が良く、魔王という魔界において頂点に位置する羅賦麻が蟲を育てる光景は想像し難く、ある意味滑稽で笑えてしまうのだが…
「洗脳は無事に完了した。真如よ、明日はたっぷり働いてもらうぞ。今夜は身体を休めておくがいい」
「はい…」
脳を支配され人格を失ってしまった真如は、無表情のまま無機質な返事をして眠りについたのだった。
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