仙桃を受け取った伊乃は、ここ数日のあいだ何も口にしていなかったことを思い出し、甘く美味そうな桃色の大きな桃に齧り付く。
「甘い!美味しい!」
実に単純かつ素直に食の感想を述べる伊乃。
仙桃を一口食べただけで彼女の肌がみるみるうちに薄い桃色に染まり生気を帯びていく。
無論、この貴重な仙桃はそんじょそこらに生えているような果実ではない。残念というか「仙」が頭に付くだけに当然というべきか、人間界には一つも存在せず仙人界でのみ花咲き実る桃なのである。
天空にある仙人界にはちらほらと実をなす木が何処かしらに見受けられ、誰が手入れをするわけでもないがよく育つ。
何故なら仙人界は酸素がグッと少なくなるほど高度の高い場所に位置し、人間界のように折角の果実を汚す邪魔な害虫も皆無であったから。
というのが仙桃の木が良く育つ主な要因であった。
さらに云えば、仙人界にはこの仙桃の木が何百本も植えられた「桃仙峡」という場所があるらしいけれど、その場所を知る者は、知識豊富な仙人といえども片手の指で数えられるくらいしか居ないらしい…
伊乃を一瞬にして虜にし、夢中になって勢いよく躍起になり食べ進めるこの仙桃は、単に大きくとろけるほど馬鹿美味いだけの果実ではない。
というのも、仙人が人間の何倍何十倍と長寿でいられるのは、この仙桃から摂れる果汁の影響が大いに作用していた。
悲痛な事象の所為で弱りに弱りきっていた伊乃が、今やすこぶる元気を取り戻しているのがその証拠であると云わねばなるまい。
しつこいようだが仙桃について最後にもう一つ。
実はこの仙桃には生物に長寿と活力を与えるとんでもない成分に加え、食した者を意識が飛んでしまうほど酔わせてしまう酒精(しゅせい)が含まれている。
よって、仙桃を無我夢中で一気食べしてしまった伊乃は人生初の泥酔状態となっていた。
「仙女の雲峡ちゃ〜ん♪いったいオラを〜♪何処へ連れて行ってくれるんだっけ〜?♪」
「…さっき教えてあげたよ〜」
同じ質問を何度もされるのを嫌う雲峡がしらけた風で答えると…
「オラ〜酔っ払ったみたいで〜♪忘れちゃたんよね〜♪勿体ぶってないで教えてけろ〜♪」
「パン!パン!パン!」
「うっ!?」
すっかり酔いの回った伊乃は己が怪力の持ち主であることも忘れ、なんとも恐ろしいことに、手加減なしで大仙人雲峡の頭を引っ叩いてしまった。
雲峡は頭を強かに叩かれただ黙って耐えるような忍耐強い仙女ではない。いや、そんな仙人など存在するはずもなかろうが…
「貴方ぁ、ちょぉっと酒癖が悪いようねぇ…まぁ仙桃を与えてしまった我にも責任があると言えばあるけれどぉ…そいっ!!!」
「ズドムッ!!」
「っ!!??………..」
雲峡は言葉尻に伊乃の鳩尾へ肘鉄をかまし、地味な動きに反して強烈過ぎるその一撃は、泥酔した伊乃を悶絶させると共に気絶させてしまった。
「睡眠も足りてなさそうだったから丁度良いかもねぇ♪『迷いの森』へ着くまでは寝てると良いわん♪」
雲峡が静かになって清々したかのようにそう言ったあと、二人を乗せた仙葉は暫くのあいだ出雲国へと空を真っ直ぐ飛んだ。
やがて、仙人覚醒を成す為の最初の試練となる地、出雲大社近くに存在する「迷いの森」へ辿り着いたのだった。
此処から数々の試練を命からがらなんとか乗り越え、全ての仙人を統べる仙人王より「聖天座真如(せいてんざしんにょ」の名を拝命し、人間の魂から仙人の魂への洗い替えも行った伊乃は、仙女への覚醒を見事に果たしたのである。
彼女、仙人としての名で「真如」は、人間界での絶望から新たに仙人としての人生を手に入れ、百五十年という人間からすれば途方もない年月を、摩訶不思議な仙人界で実に有意義に暮らすことが出来ていた。
永遠に続くものだと思われた仙人としての暮らしだったけれど、真如の前に突然現れた一人の男と出会った所為で終わりを迎えることになる…
さてさて、意外にも長くなってしまった伊乃こと聖天座真如の物語もいよいよ佳境となった次第でありまして、此処からは精一杯の力でもって「真如」の物語りを語ることに致しましょう…
仙人界といえども人間界と同じく地球にあれば、朝昼晩の風景や概念、時間の経過などは人間界と等しく存在する。
男と出会ってしまう運命の日は、いつもと変わらぬ何気ない日常の朝から始まった。
真如は自ら建築した一軒家に一人で暮らしており、極々たまに仙術の修行はするものの、金を稼ぐ為の仕事などという労働に縛られることもなく、朝はぐっすりゆっくりと寝過ごすのが常であった。
「…ふぅ、ふぅわぁ〜、良く眠ったわい」
目覚めた真如が身体から掛布団を横へどける。といっても人工的に作られた羽毛布団などではなく、巨鳥の霊獣である朱雀(すざく)から奪った巨大な羽毛一枚であり、それを身体にちょんと乗せて寝るのが彼女にとっては気持ちが良いらしい。
真如は寝起きから腹を空かせて何かを食べたりすることは滅多にない。仙人は特異な体質を持っており、人間と違って空腹になることが極端に少ないからである。
そんな理由で寝起きに食事を摂るのは稀であった。その代わり、仙人達はこれまた特別な味と成分を含んだ「仙水」と呼ばれる冷水を飲む。
仙水ならばたった湯呑み一杯分の量で満腹感を得られるため、たぷたぷになる腹と味はともかく仙人界では至って重宝されていた。
「ゴクゴクゴク…ぷはぁ~いつまで経っても不味い水じゃぁ」
僅かな時間で一気呑みした割に文句を垂れる真如。しかし言葉とは裏腹に彼女の顔は「不味い」というより「美味い」を表現していた。不味い食べ物でも食べ続ければクセになるものがたまにあるけれど、仙水は正にその部類に入っているのかも知れない。
さて、仕事の無い仙人達は長い一日を果たしてどのように過ごしているのだろうか?
人間界において「仕事」や「労働」は生きる為に必要であり、費やす時間は人生の限られた総時間の中でかなりの割合を占め、ほとんどの人々は仕事を追いかけ、時には追い詰められるといった楽しくもない時間を過ごし搾取されてしまう。
だから、極小数で賛否両論はあるだろうけれど、「仕事にやり甲斐や楽しみを見出した者」や、「仕事が趣味と言っても良い者」などの話を聞くと語り手としては羨ましい限りなのである…
と、「仕事」に関しての考察などを述べてもみても、疲労は癒されないし楽しくもない。
そもそも物語と関係ないではないか。
仕事云々の話はさておき、この天空の島にある仙人界にて悠々自適に過ごす仙人達の生きる目的とは?なんぞや?
恐ろしいことに本当のところそんなものはありもしない。ということは無きにしも非ずといった具合であろう。良く分からないが…
少なくとも聖天座真如には一日をどのように過ごすかという計画らしい計画は、ここ百五十年ほどの長いあいだ皆無であった。
「今日は釣れぬ魚でも釣りに行くかのう」
訳のわからぬ大きな独り言を呟いた真如が釣竿を一本持ち、「釣れぬ」と言いながらも釣れたとき用の竹で編んだ籠を一つ持ち、にこやかな顔をして意気揚々と家を出て行った。
空気は薄いが自然の景観と仙人達の奇妙な建造物が上手い具合に溶け込み、周りを見渡せば絶景のオンパレードが続く道を気持ち良さげに歩く真如。
そんな彼女に横から年寄りの出す二つの声が届く。
「真如〜、今日も釣果のあがらない釣りをするんかい?」
「全くもって飽きんもんじゃな〜」
聞いた真如が声の主である二人の仙人へ朗らかに返す。
「そうじゃ〜、今日も釣りじゃ〜。百年も将棋を打ち続けるあんたらに言われたくはないがのう」
コメント