このあと、難を逃れた二人は互いに名を名乗り、男は森を抜けた先にある村の農家の息子で成野川正親(なりのがわまさちか)ということであった。
今宵は滅多にしない狩りで全く成果が上がらず、獲物を追って森の奥まで入り込み、我を忘れて狩をしているうちにいつの間にやら夜になっており、狼の群れに出会してしまったのだと云う。
男女が波風の無い平常時の出逢いにおいて、一目惚れなどの劇的な感情を抱くことはきっと稀であろう。たぶん。
逆にいえば此度の伊乃と正親のように、偶然が重なり互いに協力して窮地を乗り越えた二人が、一目惚れなどという劇的な感情を抱いても何ら不思議ではない。
つまり二人の関係は、この体験をきっかけに夫婦となるまでに発展し、平々凡々ではあったけれど十年という年月を幸せに暮らしていた。
伊乃は両親との生活で失敗した過去を踏まえ、自身が働きすぎないよう家事に重きを置いて気を遣ったものである。
その甲斐もあって、十年もの夫婦生活を幸せに過ごせたわけであるが、残念なことに二人が子を授かることはなかった。医学の概念が無いこの時代に、どちらに原因があったのか知る術はあろうはずがなく、二人にはどうすることもできなかったけれど、人の優しい正親が伊乃を責めるようなこともなかった。
ゆえに、子を授からなくとも伊乃と正親は互いを思いやり、周りの人々に羨ましがられるほど幸せに過ごせたのである。
だが、梅雨の時期のとある日に、幸せな生活をつつがなく送る夫婦を引き離す災難が起こってしまう。
その日は朝から激しい雨が飽きもせず降り注ぎ、風も「ピュウピュウ」と強く吹く嵐となっていた。
普段は早朝から田畑へ向かう働き者の正親も、流石に今日ばかりは外へ出るのはやめておこうと決め込み、伊乃と共に家でジッとしていたのだが、激しく降り続く雨で田畑が駄目になってしまうことを恐れた正親は落ち着かなくり、心配する伊乃の静止を振り切り嵐の外へ飛び出してしまう。
吹き荒ぶ風に吹き飛ばされてしまわぬよう、正親は身を低めて歩を進め、川下にある田んぼの様子を確認したあと、丘の絶壁の麓にある畑まで足を運んだ。
ことの済んだあとでああだこうだと云っても仕方がないが、田んぼを見て戻ればよかったものを…
激しく降る雨と強風に抗い、やっとの思いで畑に着いた正親は、大事に育て上げた畑の無惨な姿を眺めて愕然とし、水でベチャベチャのドロドロとなった畑の土に両膝をつき項垂れる。
そして、天はあろうことか心の折れた正親に対し、無慈悲で不可避な試練を与えてしまうのだった…
室町時代よりも遥か昔、地震と豪雨が引き起こした大規模な地滑りによって出来たと考えられる絶壁。正親の耕す畑の側、平地より真っ直ぐ垂直に聳え、50mの高さはあろうかというこの絶壁に、丘から流れる雨水とは別口の流れをする水脈があった。
絶壁内部の奥を流れる水脈の吐口は、最悪なことに正親の畑を向く亀裂となり表面上くっきりと見えている。
普段降る雨量なら、そこから水がチョロチョロと細やかに流れる程度であったが、川も氾濫を起こしても不思議でない今の状況からすると、圧倒的雨量によって亀裂が一気に広がり鉄砲水がいつ噴き出してもおかしくないのだが、豪雨によって蹂躙された畑の光景を目の当たりにした正親には、己に危機が迫っていることを考える余裕など微塵も無かった。
神や自然にとっての気まぐれで些細な悪戯は、時として人間に究極的な絶望を与える…
「ズッガァーーーーーン!!!!」
まるで火山が噴火したかのように凄まじい爆音が突如として鳴り響き、地中に収まり切らなくなった水が絶壁の亀裂から一気に押し出された!
云わずと知れた「鉄砲水」であったる。
それは余りにも速く巨大な水の塊、否、もはや洪水の固まりと云った方が正しかった。
「おわぁ!!??ぶっ!?」
完全に油断していた正親はなす術なく、巨大な鉄砲水の中へ瞬く間に呑み込まれてしまった。
「ガン!ガガン!」
「っ!?」
とてつもない速さで流れる即席の川に揉みくちゃにされ、木や岩にぶつかった正親の身体の肉と骨が砕かれていく。
終いには気を失い無抵抗となり流された彼の身体は、奇しくも己の育てた田んぼの上でようやく静止する。
二度と動ことのない屍となって…
なかなか帰って来ない夫を心配し、居ても立っても居られなくなり、家を飛び出し彼を探しに出掛けた妻の伊乃。
彼女が正親の屍を見つけたのは、死後暫く経ってからのことである…
互いに愛し合う者、互いを大切に想う者、互いを幸せにしようと決めた者。
夫の正親と、妻の伊乃の関係はその全てに当てはまり、十年という長い歳月を、二人は変わらぬ心で幸せな将来を語りつつ過ごして来た。
そんな二人に突然訪れた残酷で絶対的な別れ。
明日になれば状況が変わり元の生活が戻って来る。などと都合の良い話しは万が一にも起こり得ない。
果たして人は、彼女と同じ立場であったなら、このような事象を素直に受け止め、正気を保って居られるのだろうか…
世の中は狭いようで広い。或いは上手く正気を保ち、強く生きられる人間も居るのであろう。
だが彼女は、深く愛した者を突然失い、正気を保っていられるほど強い人間ではなかった…
どれほど稀か分からぬ確率、人の死因としては聞き慣れぬあまりな不運に見舞われた最愛の夫。
溜まった水が飽和状態になった田んぼの水面に、その亡骸は半分浮かんでいる状態で伊乃の目に写り込んだ。
天から降る雨の勢いも弱まらず、雨具も着けずに家を出た伊乃はずぶ濡れになっていたが、彼女にとってもはや我が身に降りかかるものなどどうでも良かった。例えそれが一撃で致命傷を負わす弾丸の雨であったとしても…
「ううう….ゔあぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ!!!!」
駆け寄った彼女は、人形のように動かなくなった正親の亡骸を抱きしめ、ありったけの力で喉が千切れてしまいそうなくらいに泣き叫んだのだった。
夕方になり激しかった雨と風が過ぎ去った頃、空には紅く沈む夕陽が僅かに垣間見えていた。彼女は疲れ果てたのか泣き止んではいたものの、最初に亡骸を抱いたままの体勢で田んぼの真ん中に座り込んでいた…
少し前に語った漁師の妻の物語。蓮左衛門と九兵衛が成仏させた幽霊であり怪異でもあったお雛。
彼女も伊乃と同じく愛する者を突然失った人物であったけれど、お雛の場合は悲しみに打ち拉がれ、絶望した挙句に死して幽霊となってこの世に残り、蓮左衛門と九兵衛の前に姿を現したものであった。
無論、此度の物語はその「幽霊物語」とは大きく勝手が違う。
これは人間の伊乃が仙女となり、仙人界から堕ちるまでの物語。
はてさて、思いの外長い物語になってしまったけれど、此処からがいよいよ本題となるわけでして…
楽しくしていようが、悲しくしていようが、日というものは否応なしに過ぎていき、夫である正親が亡くなってはや十日が過ぎていた。
家に籠る伊乃は絶食するようなことは辛うじて無かったが、若干ふくよかであった身体は明らかに痩せ細り、美しい顔も幾らか老けてすら見える。
梅雨もようやく明けたのではないかというこの日、ある意味で茫然自失の状態が続いていた彼女は何を想ってか、突然勢い良く立ち上がり何も持たずに家を出て、森へと続く道を真っ直ぐに歩き出した。
無言で俯いたまま、ただひたすらに歩き続ける彼女の向かう先はいったい何処なのであろうか…
その答えは彼女の歩く道によって直ぐに導き出された。
伊乃が目指しているのは十年以上前に捨てた生まれ故郷である。
恐らくは悲しみに包まれた彼女の脳裏に、幼き頃は優しかった両親の姿が過ぎったのであろう…
彼女の本心は定かでない。が、三日ほど歩き続けたのち、彼女は昔住んでいた故郷の屋敷へと辿り着く。
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