彼女は森の道を歩きながら久しく感じていなかった解放感に浸っていた。
幼い頃はあんなに働き者で優しかった両親からの束縛。しかも自分らの至福を肥やすため、実の子供に労働を強いるまでに変わり果てた両親との生活は、彼女にとってもはや苦痛でしかなかったのである。
鼻歌混じりに鮮やかな紅葉の景観を楽しみつつ歩き続け、脚の速い彼女が幾つかの小さな山を越えたところで、辺りはいつの間にやら暗くなり、急に冷たくなった空気の所為で身体が冷え込んでいく。
何処かで火を起こして飯でも食べようかとキョロキョロすると、ちょうど森の木が円を描くように立ち並ぶ場所を見つけることが出来た。
伊乃はさっそく周辺の枯葉と薪木を拾い集め持参した芋を枯葉の下へ潜り込ませ、愛用の火打石で火をつけようと試みる。
「よ〜し、此処は運試しでもしてみようか…一発で火が点けばオラのこの先の人生はきっと上手くいく、もし、点かなければぁ、まぁそれなりで…」
と、どちらにしても悪い方向でないことを持ち出す伊乃。
ある意味、楽観主義的な考えで良しとしようではないか…
「せ〜のっ!」
「パキン!」
「ジュウッ!」
想いを込めた馬鹿力の火つけによって、火打石は見事なくらい真っ二つに割れてしまったけれど、発生した特大の火花が枯葉に直撃して上手いこと赤く燃え出したのだった。
彼女は出来上がった火元に枯葉と細めの薪木を乗せ、口を尖らせて「フゥ、フゥ」と空気を送る。
火がある程度成長し安定したところで重ねた薪の束に腰を下ろし、一息ついた彼女は突然クスクスと笑い出した。
「フフフ、運試しは成功に終わったということで…あとは焼き芋を食べてたっぷり寝るとするか…」
普通の若い女なら暗い森にたった一人でポツンと座っていれば、不安になってしょうがない筈なのだが、幸いにしてと云うか運命と云うべきか、彼女は普通の女でなかったお陰で不安がる気配は皆無であった。
そんな彼女が黙ったまま焚き火を見つめていると、寒くなった夜ということもありことさら火の暖かみを肌で感じ、瞼が下がってウトウトとし始めた。
しかし、そんな穏やかな空気を一変させる獣の遠吠えが突如として森の中に響き渡る。
「ワオォーーン!」
静まり返った森なれば、その遠吠えはことのほか遠くまで届いたであろう。
そして。
「ウオォーーン!」
ほどなくして仲間の獣が遠吠えによって応えた。
昔の日本に獣の種は多々あれど、こういった習性を持つ獣とくれば限られてくる…
その獣は徒党を組み連携して獲物を襲い、古くから人を喰らうとされる凶暴な狼に他ならない。
不穏な遠吠えが耳に届き、伊乃の朦朧としていた意識が瞬時に研ぎ澄まされる。
「…狼か…随分と近くにいるようだな…」
彼女が焚き火をしている地点に聴こえる遠吠えの音量や響き具合で大体の距離を掴む。
付近に狼の群れが居たとして、現状最も安全なのは下手に動かず、焚き火の周りに身を潜めることが賢明かも知れない…
伊乃は若いながらにそう考え、心許ないが武器の代わりとして目に付いた石や岩を拾い集め、焚き火を背にして薪木の上に座り込み、足元には集めた石や岩をいつでも投げられる状態にして置いた。
獣は火を怖がるという印象があるけれど、果たして実際はどうなのであろうか。
暗い森で火を焚くという行為は、逆に獣達に居場所を教えていることにもなる。
ひょっとすれば集まった狼達が彼女に襲いかかって来るのは時間の問題かも知れなかった。
彼女が周囲に注意深く目を配り、狼達に襲われた際の対処法をじっくりと考えていると、近くの草むらが僅かに揺れ「ザザッ」と音を立てた。
微かな音を聴いた伊乃の身体に緊張が走り、大きめの石を一つ右手に持ち身構える。
すると、草むらの中からヒソヒソ声で何やら人の言語が聴こえてきた。
「その石を投げないでおくれよ。俺は狼じゃないから」
伊乃は思いもよらぬ人、男の声にハッとして石をそっと足元に置き、言葉を選びつつ小さな声で返事をする。
「したらば、ゆっくりとこちらへ」
彼女の脳裏に「もしや山賊では?」という疑念も一瞬だけ過ぎったが、話し方と他に人の気配を感じなかったため、付近に狼がいることも踏まえて焚き火の側へ寄らせることにした。
「じゃぁ今から出る…」
男は伊乃に言われたことをしっかりと守り、草むらの中からゆっくりと姿を現した。
彼の姿は誰もが一眼見れば「見窄らしい」と頭に浮かぶような格好をしており、手作りの弓と矢を両の手に一つずつ持っていた。
確かに見窄らしい姿の彼であったが、伊乃と変わらぬほど若々しく凛々しい顔立ちをしている。
伊乃が彼を見るなり「こちらへ」と手振りで伝え、男は彼女と少しだけ距離を取って薪木の上に腰掛け。
「寄せてくれてありがとう。でもそこら中に狼達が集まって来ている。もし狼達が襲ってきたら二人で協力して追い払おう」
格好とは裏腹にしっかりとした口調で話す彼に、伊乃は目線を合わせてコクンと頷いて意思表示した。
二人が暗黙の了解のもと押し黙ったまま会話もせず、森の暗闇に目を向け狼を警戒していると…
「来た…」
狼の襲来に伊乃が先に気付いた。
木と木のあいだの暗闇に、焚き火の反射によって光を帯びた狼の鋭い眼が浮かんでいる。
それが一つ、また一つと瞬く間に増えていく…
「十はいやがるな…」
男は肝が据わっているのか冷静に数を数え、暗闇に浮かんだ光る眼に向けて弓を構える。
伊乃も男にならい足元の石を拾い上げいつでも投石できる体勢を取った。
すると複数の光る眼が徐々に二人の方へ近づき、十数匹の狼達の姿がはっきりと分かるまでになった。
「グゥルルルルル….」
空腹の狼達が獲物を前にし涎を垂らして喉を鳴らす。
十数匹の狼に対して伊乃はたったの二人。もし、狼の群れが数にものをいわせて襲い掛かって来れば、捌ききれずに噛みつかれるは必至。
どう見積もっても圧倒的に不利な状況、伊乃と男がどうすべきか個々に思案する最中、先頭の狼が二人に向かって駆け出しニ匹の狼がそれに続き跳躍して襲いくる!
「ていぃっ!!」
男が矢を放つより早く伊乃が石を投げつけた!
「バゴォォッ!!!」
「ギャフッ!!??」
弾丸の如き速度で飛ぶ石が先頭の狼の額を砕いてぶち抜いた!!
だが後続の狼二匹が怯まず二人へ飛びかかる!
「ザシュッ!!」
「ギャン!?」
片方の狼の眼に男の矢が見事命中した!が、残るもう一匹が伊乃の目前まで接近する!
「バッキィッ!!」
「ギャッ!!??」
狼の牙が伊乃の顔に到達しようかという寸前、彼女は一投したあと即座に拾い上げていた大きな石で豪快に狼の頭をカチ割った!!
二人が三匹の狼達に当てた攻撃は全て致命傷となり、地べたにはその死骸が無惨に転がる。
三匹を倒したとはいえ残る狼の数はまだ十匹以上。
伊乃と男は油断せず、各々が武器となる石と矢を再び急ぎ構えた。
だがこの行動は杞憂に終わる。
何故なら、残りの狼達は人間に一瞬でやられてしまった仲間の無惨な姿を見て、既に戦意を喪失していたのである。
一匹がゆるりと踵を返し、正に尻尾を巻いて逃げ出すと、他の狼達もそれに続いてあっという間に消え去った。
これが人間であったならば残りの総戦力でもって攻めて来たのであろうが、徒党を組んで獲物を狩る狼とはいえ、流石にそこまでの知恵は無かったのであろう。
狼の群れが予想外に早く退散するのを見た二人がホッと胸を撫で下ろし、命を賭した緊張が解けて薪木の上に腰を下ろした。
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