畑仕事で大いに役立ち使用する鍬とて、木製の棒の先に付く鉄製の歯は、人の使いようによっては立派な凶器となり得る。
トヨと父親の又吉(またきち)が日頃から仕事で愛用する鍬は、鉄の歯が四本に分かれており、歯の先端はなかなかに鋭利なものとなっていた。
この型の鍬は、何百年ものあいだほとんど形を変えず人々に使用され、江戸時代には「備中鍬(びっちゅうぐわ)」などと名が付けられたらしい。
そんな危険で重い鍬を五歳の娘に持たせ、万が一にでも怪我をしたなら後悔しても仕切れない、という想いでトヨは言ったのだが伊乃は食い下がって来る。
「オラはおとうとおっかぁを手伝いたいだけなんじゃぁ!なぁなぁおっかぁ鍬を貸してくんろ~!」
「全く今日はどうしたっていうんだい。困ったもんだねぇ」
滅多に我儘を言ったことのない伊乃に困り果て、さらには鍬を奪おうとする娘から離れようと一苦労していた。
その様子を横目で見ていた父親の又吉が畑を耕す手を止め、鍬を持ったまま二人の元へと歩いて近づく。
「ハハハ、珍しく二人で騒いでどうした?」
「ごめんなさいねぇ、あんた。この子が鍬を持って畑仕事を手伝いたいって言うもんだから、未だ早いって言い聞かせてたところなのよぉ」
トヨは幼い伊乃が、自分達に優しい気持ちで手伝いを申し出たことはしっかりと理解していた。けれども伊乃を大事に想う母親としては、少しでも危険性のあることは避けたかったのである。
親の心子知らずとでも云うべきだろうか、伊乃にはそんな母親の気持ちが通じず、むすっとしてそっぽを向いてしまい、今にも溢れそうな涙目になっていた。
又吉が伊乃の頭に腕を伸ばしそっと撫でる。
「ハハハ、泣くことはあんめぇよ伊乃〜。ほれ、おっとうの鍬をやるで、ちょっとばかり土を掘ってみろぉ」
聞いたトヨが又吉に何か言おうとしたが、二人で様子を見ていれば万が一もあるまいと諦めた。
雨模様だった伊乃の顔が太陽のように輝き、又吉が片手で差し出した鍬を両手で受け取った。
「ありがとな〜♪おっと〜♪」
伊乃は受け取った鍬をさも嬉しそうに両手で軽々と頭の上に掲げた。
娘の小さい身体では受け取った瞬間にふらふらしてしまうだろうと、両手を広げて支える準備をしていた夫婦が驚く。
「なぁなぁおっとう、おっかぁ。オラは力もちじゃろ〜♪」
自慢げに言う五歳の娘に対して、驚きを隠せないトヨが言う。
「す、凄いねぇ伊乃〜。でももう危ないからおっとうに鍬は返しんさい」
もちろん、やっと手にした鍬を易々と返すような伊乃ではなかった…
「おっとう!おっかぁ!見ててくんろ~!」
っと言う間に両親から離れ、満面の笑顔の伊乃は桑を掲げたまま畑へ駆けて行く。
又吉とトヨの二人が、大事なの娘を一人にしてはおけないと慌てて追いかけた矢先。
「せ~のっ!」
「ザクッ!ザクッ!ザクッ!ザクッ!ザクッ!….」
何と何と!たった五歳の可愛らしいひ弱そうな娘が、自分の背丈の倍の長さはあろうかという重い鍬を軽々と扱い、雑草が生い茂り石ころの混ざった畑の土を又吉の何倍もの速さで耕して行くではないか!
「お、おおぉ…」
「まぁ….」
怪我をしまいかと心配していた又吉とトヨの二人は、言葉を失いただその光景を唖然としたまま眺め続けた…
余りにも長いこと驚いていた二人がようやく正気を取り戻した頃。
「おっとう!おっかぁ!終わったよ〜!」
身体を土だらけに汚して畑の隅に立つ伊乃が二人に元気な声を出して手を振っていた。
もちろん初めての畑仕事であったものだから、綺麗に耕したとは言い難かったけれど、夫婦二人が一日がかりでやるつもりだった面積を、たった五歳の女の子である伊乃がほんの僅かな時間でこなしてしまったのである。
「こりゃぁたまげた…本当にあの子はおいら達の娘かい…」
「あんた、怖いことを言わないでおくれよ。あの子は間違いなくあたしらの子よぉ….」
伊乃の行った信じられない光景を目の当たりにした二人が、疑ってしまうのも無理はない話しであろう…
と、この日を境に、伊乃は夫婦と共に田畑の仕事を手伝う、否、主力となって仕事をこなすようになった。
こんな驚くべき事態の原因は、伊乃の身体が同年代の普通の子らと違い、仙骨と仙血を産まれた時に神より授かっていたためであったが、そんなことは本人を始めとして両親も当然知るところにあらず、とびきり力持ちであること以外は他の子らと何ら変わらなかったので普通に暮らせたものだった。
いやいや、「普通に暮らせた」という言葉には語弊があったかも知れない。
里村伊乃が歳を重ねる度にその「怪力」は増していき、十八歳の頃になると、小さな山くらいなら一人で開拓してしまうほどになっていた。
その伊乃の大いなる働きによって、里村家は貧乏暮らしを抜け出すどころか集落一の長者となり、「日本昔ばなし」で表現されるような優雅な暮らしをしていたものである。
無論、伊乃の物語は「幸せに暮らしましたとさ」では終わらず、美しさにも磨きのかかった彼女の噂は遠方まで広がり、各地の男達から嫁に来て欲しいと声が掛かるようになる…
柱が腐り、いつ何時天井が落ちてきてもおかしくなかった里村家の住まいは、今や何処ぞの守護大名が持つような豪奢な屋敷へと変貌を遂げていた。
又吉とトヨの二人の生活もすっかり様変わりし、自分らで農業の仕事に精を出すということも無くなり、人を雇って田畑を維持しながらの贅沢な生活を送っていた。
二人がこんなにも優雅な生活を送れていられるのは紛れもなく全て、異様なほど働き者であった伊乃のお陰である。
だが今の又吉とトヨには、至極真面目に働き娘想いだった面影は微塵も感じられず、伊乃への感謝の念などは何処へやら、「やれ働け、それ働け」と毎日捲し立てる始末であった。
人間とは不思議なもので、自己を取り巻く環境がガラリと変わってしまうと人格まで変わってしまうことが多いらしい。単に元々あった本性を曝け出せる状況になり、潜んでいた本性が顕在化されただけとも考えられなくはないが…
兎にも角にも変わってしまった二人と、立派な大人に成る手前まで育った伊乃の関係には大きな亀裂が入りつつあった。
そんなギクシャクした親子の生活が繰り返されていた折、歩けば人の心を惹く美しき乙女となった伊乃を嫁にせんと、彼女の噂を聞きつけた男どもが毎日取っ替え引っ替え訪れては伊乃を「嫁に欲しい」と申し出たものである。
武士の家柄や、大金持ちの名家、果てはこの時代に大きな力を持っていた守護大名などなど、伊乃と両親の三人は多くの者と面談したのだけれど、彼女の心を射止めるような者は一人も現れなかった。
又吉とトヨからしてみれば、伊乃には名だたる金持ちの男と夫婦になって貰い、一生安泰な生活を望んでいたのが、彼女がそういった類の男には全く興味を示さないものだから、彼女にブツブツと文句を垂れる度に親子関係はますます悪くなっていった。
伊乃はそんな両親への嫌悪感が酷くなり、本当は不本意だったかも知れないけれど、彼女はとうとう親を捨てて家を出て行くことを決意し、ある日の真夜中、両親には何も言わず置き手紙を一つだけ残して屋敷を出て行ったものである。
翌朝、伊乃の置き手紙に気付いたトヨが開いた手紙にはこう記してあった。「昔のおっとうとおっかぁは大好きでした。でも今のおっとうとおっかぁは大嫌い。屋敷を出て新たな人生を歩みたく存じます。どうか探さないでくださいましね。いつまでもお元気で」
読んだトヨが眉間に皺を寄せて呟く。
「親不孝者め…」
どっちがだ!と云いたいところではあるけれど、決意を固めて屋敷を飛び出した伊乃はというと、吹っ切れた顔で嬉しそうに遠くの山道を歩いていた。
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