「あんたぁぁ!吟ぁぁ!返事をしておくれよぉぉ!」。お雛は喉が張り裂けんばかりに声を上げ、二人に何度も呼びかけるが返事はやはり返っては来ない..
涙をいっぱいに浮かべた彼女の目には、ぐったりと横たわる夫の姿は映っていたけれど、幼く小さな身体の娘の姿は映っていなかった。
いつの間にか嵐も去り、風はそよ風に、雨は小雨に、海の波はさざ波程度に落ち着きを取り戻した。
謎の物体に魂を奪われ、亡骸となった一太郎と吟の二人を乗せた小舟が岸辺へゆっくりと流れる…
小舟が岸辺までもう僅かといったところまで来ると、お雛は海に駆け込むように浸かり、一所懸命に小舟を押し岸辺へと押し上げたのだった。
お雛が小舟の上に横たわる一太郎の顔を覗くと、真っ青な顔で血の気が感じられず、「あんた!あんた!起きておくんなまし!」と声をかけ、腕をさすって起こそうとするが…夫の冷たい体温が伝わるだけで何も反応は帰って来ない…
と、彼女の心が絶望感に包まれながら横へ向けた目線の先に、小さな身体の吟が丸まって倒れているのが見えた。
お雛は直ぐさま近づき吟を抱き抱えて何度も、何度も娘の名を呼んだが、その小さな唇は青くなって固まったまま、お雛の耳に声を届けることは無かった…
とてつもなく深い井戸の底にいるような哀しみに呑み込まれたお雛は、娘の吟をギュッと抱きしめたまま、ただひたすら泣き続けたのだった…
長いこと一人で泣いていると、近くの道を通ろうとする数人の旅人に助けられ、二人の亡骸を家まで運んでもらったのだが…
お雛は二人を埋葬しようとはせず、囲炉裏の横に亡骸を仰向けにして並べ、数日のあいだ一切の食べ物を口にすることなく、魂の抜けた二人と共に日夜を通して過ごした。
それからさらに数日が過ぎた頃、絶食していた彼女はとうとう力尽きる…
美しかったお雛の顔はやつれにやつれて「死人」そのもと成り果て、「川」の字を作るように二人の横へ寝そべると、最後の言葉を囁くように呟く、「ごめんね」と…
この数日間をお雛がどのような気持ちで過ごしたのかは誰にも分からない。だが、最愛の夫と子を突然失ってしまい、絶望感に打ちひしがれたことだけは確かであった…
幽霊となったお雛は蓮左衛門と九兵衛に此処までの話の半分ほどを語り伝えた。
果たして本当にそれだけで、彼らにお雛の哀しき物語は伝わったであろうか?
彼らの表情を見れば、そのような懸念が無用だったことは一目瞭然である。
蓮左衛門と九兵衛の二人は、大の大人がこんなに泣いてもいいものか?と思わせるほど男泣きしていたのだから…
「わたくしの家族に起こった話しは此処までにございます……手前勝手ではありますけれど、あなた方を只者では無いと見込んでお願いしたいことがございます」
お雛が申し訳なさそうに言うと、蓮左衛門は袖で涙を拭い、九兵衛が手拭いで顔を拭いて彼女に目を向けた。
「なっ、何でも言ってくだせぇ。あっしはお雛さんのお役に立ちたいでやんす」
「もちろん拙者も、我らで叶えなれる願いなら遠慮無く頼んでくれ」
仙花一味の中でもこの二人はとりわけ情に厚い。一考もせず即座に彼女の力になると宣言した。
そんな二人の言葉を受けたお雛が丁寧にお辞儀する。
「…こんな、素性もよく分からぬ女のために…誠に嬉しゅうございます…」
「気にするな、でござるよ。それよりも願いとは一体何でござるか?」
蓮左衛門が訊き、隣の九兵衛が「うんうん」と相槌を打つ。
「夫と娘の仇…怪異の『闇雲(やみくも)』を討って頂きたいのでございます…今夜の突如として起こり、短いあいだで過ぎ去った嵐は『闇雲』の現れる前兆…怪異の一種である幽霊となったわたくしには分かるのです。奴がこの付近に現れたということが…」
お雛は大切な家族の命を奪った物体への遺恨を残しこの世を去った。
結果、怨念とも云えるその遺恨が彼女を怪異たる幽霊にならしめ、家族を襲った謎の物体の正体を知ることとなったのである。
蓮左衛門達が己の契約した怪異以外でこれまでに遭遇したことがあるのは、鬼武者の韋駄地源蔵が契約した「鬼」を始めとして、いつか語らねばならないが、雪舟丸の所持する退魔の剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を手に入れた際の「鞍馬天狗(くらまてんぐ)」、そして今日初めて具現化するのを目の当たりにした「妖狐」の弧浪まで、全て合わせると計三種となる。
おっと、幽霊なる怪異となったお雛の存在を忘れてはならない。これで計四種。
仙花と共に旅をする蓮左衛門と九兵衛にとって、幸か不幸か怪異という存在はもはや珍しいものではなくなりつつあった。
「怪異の一体や二体、拙者らでちょちょいと片付けてやるでござるよ。なぁ九兵衛!」
「ドン!」
「げふっ!?」
強気な発言をする馬鹿力の蓮左衛門に背中を叩かれた九兵衛の息が一瞬止まる。
「けほっ、けほっ…ま、任せてくれでやんす」
いつもなら「怪異」と聞けば怖気付く弱気な九兵衛であったが、今回はどうやらやる気に満ち溢れているらしい…
「お雛さん、その『闇雲』とやらは今どこら辺にいるでござるか?…ん!?」
と此処で質問した蓮左衛門が、お雛の目線が自分達の方へ向いていないことに気づく。
「まさか闇雲が背後に居るのか!?」
などと唐突に頭をよぎった蓮左衛門が背後を振り向むくと…
「ぬっ!?もしやあれが仇の闇雲ではござらんか!?」
直ぐ近くというわけではなかったけれど、20mほど離れたポツンと一本立つ大きな木の上に、霧状の黒い物体がうようよと不規則な動きをして空中に浮かんでいるのが見えた。
嵐が去って間もないというのに天を覆っていた雨雲は消え去り、いつの間にやら顔を出した月が淡い光で闇夜を照らし、黒色ゆえに見辛いはずの闇雲の姿を認識できたものである。
「如何にも…あれが大切な我が夫と娘の仇、怪異の闇雲にございます。奴は人の恐怖心を察知して近づき命を奪う者。十分にお気をつけくださいませ…」
「承知したでござる…」
先程まで勢いのあった蓮左は正直なところ戸惑っていた。
お雛の過去の話しによれば、闇雲はあっという間に親子を包み込みんで命を奪い去っていったということである。
はて、そのような相手に刀を使用する接近戦が果たして可能なのか…
蓮左衛門が己の内に潜む怪異に呟くように話しかける。
「真土間(まどま)。お前の力で奴を仕留められそうでござるか?」
話しかけた相手は怪力乱神(かいりょくらんしん)の怪異「真土間」。蓮左衛門の人間離れした怪力はこの真土間と契約したことにより、元々素でも強かった怪力が輪をかけて強化されたものであった。
その怪力の塊のような怪異たる真土間の返答が蓮左衛門の心に届く。
「悪いが無理だな」
「なっ、何と!?」
時間をかけず余りにもキッパリあっさりとした諦めの言葉に蓮左衛門は動揺した。
「怪異のワシがいうのもなんだが、同じ怪異であっても属性や形態による相性ってものがある。ワシは物理的な力に超絶自信を持っちゃぁいるが、闇雲って奴には物理的な力がてんで効かない。つまり、ワシとお前であいつを倒すのは不可能ってもんだな」
「ぐっ、それではお雛さんとの約束が果たせぬでござる。何か策は無いのか?」
「無い!今お前にできることはせいぜい命を奪われぬよう全力で逃げることくらいだ」
「ぐぐ…」
考えが足らなかった。といえばそれまでであろう。だが、真土間の言ったことが正しいにしても悔しすぎる…蓮左衛門は何もできない歯痒さで音が口から漏れるほど歯軋し考えた。
と、蓮左衛門が不意に横を向いたが九兵衛の姿がない。
闇雲の浮く場所へサッと目を向けると…
「お雛さんと家族の仇!今こそ貴様を討ってやるでやんす!!」
たった一本の棒っきれを手に持ち、闇雲の方へ無謀にも突撃する九兵衛の姿があった。
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