刀姫in 世直し道中ひざくりげ 仙女覚醒編 ノ14~16 「幸せな家族」「嵐」「尊い命」 

刀姫in 世直し道中ひざくりげ 仙女覚醒編

「…わたくしは「お雛(おすう)と申します。大切な家族についてお伝えたいことがあり、あなた方の前に姿を現しました…聞いておくんなまし…」

 お雛は二人に対して名を名乗り、あまり喋る印象の無い幽霊ではあったものの、否、長々と語る幽霊など皆無かも知れないが…兎にも角にも、自身と家族の身に何が起こったのかを静かに語り出したのだった…

 時は一年ほど前まで遡る。

 とある朝、家の中ではお雛とその家族である夫の仲井戸一太郎(なかいどいちたろう)と、歳の頃は八つに成ろうという可愛らしい娘の吟(うた)の三人は、囲炉裏を囲んでゆっくり飯を食べていた。

 一太郎は顔こそ普通そのものであったが、働き者で真面目な家族おもいの良い男。
 お雛は一太郎の嫁には勿体ないと人に噂されるほど器量が良く、此方も働き者で笑顔の似合う良い女である。
 娘の吟はというと顔はお雛に似たのか、将来は美人確定であろうことは容易に想像でき、性格も優しく朗らかな子供であった。

 仲井戸家は貧乏であったものの、それ以外は絵に描いたような幸せな家族である。

 この日は吟のたっての願いが叶い、一太郎と小舟に乗って釣りをすることになっていた。

 一太郎は、「お雛も一緒にどうだ?」と誘ったのだけれど、家事の忙しかったお雛は「二人で楽しんでらっしゃいな」と微笑んで応えたものである。
 
 朝飯を食べ終わり、一太郎が家の外に掛けていた二本の釣竿を手に持ち、小舟のある砂浜へ吟を連れ歩いて向かう。

 仲井戸家の日頃の行いが善い所為か、この日は天気に恵まれて波も穏やかな絶好の釣り日和になった。

 長きに渡って楽しみにしていたということもあり、吟のはしゃぎようときたらない。
 このままではとても小舟に乗せられないと、一太郎は落ち着かせるのに苦労したものである。

 ようやく落ち着かせたところで吟を持ち上げ小舟に乗せ、見送りに来たお雛から水の入った竹筒を受け取り海に出た。

 お雛は海岸から小舟が点に見えるまで手を振り二人を見送った。
 彼女は家の方を振り返り、「今夜の夕飯は楽しみねぇ」などと言いながら帰って行った…

 彼女は夫と娘の釣果がどれほどあり、釣りを楽しめていたかなどということは、一緒に行かなかったため良くは知らない。
 これは後から、海の上でたまたま二人に出会した人の話しによれば、見ている方が嬉しくなるほど、それはそれは楽しそうに釣りを楽しんでいたと云うことである。

 無論、お雛が本人達から直接話しを聞けなかったのは、二人に災難が降りかかったからに他ならないのだが…

 一太郎と吟の二人がひとしきり釣りを楽しんでいると、空を見上げた一太郎の表情が俄に渋くなった。
 晴天だった空が嘘のように変わり出し、暗い灰色の雨雲がどんどん広がっていくのが目に入ったのである。

 漁師を十年以上続ける一太郎は天候を読むことに長けていたけれど、その彼をもってしても違和感を覚えるほど早い雲の動きは読めず、不可思議な現象に戸惑いを隠せない。

 だが、この不可思議な現象に「考える猶予はなし」と判断を下した彼は、にこにこしながら釣竿を持つ吟に岸へ引き返すことを伝えた。

 吟は残念で哀しそうな顔をして一度はごねたのだが、父の普段と違う厳しい表情を見るや、すぐに竿を置き糸を引き寄せ片付けのだった。

 楽しかった時間は空の異変によって断絶され、一太郎は風の無い今のうちに急ぎ帰ろうと、岸へ向けて力強く小舟を漕ぎ出す。
 漁師の本能とも云うべきであろうか、今は雨雲こそあれど穏やかな状況は続かないと察知していたのである。

 風が無ければ波も緩やかなもので、二人を乗せた小舟はすいすいと進み一気に岸までの距離を稼ぐ。

 しかし、不可思議な天候は順調な小舟の進捗を放ってはくれなかった。

 冷たい小雨がポツポツと降り始め、吟の黒髪を激しく靡かせるほどの風が吹き荒ぶ。

 じきに嵐になると悟った一太郎は小舟を漕ぐ腕に目一杯の力を込め、不安そうにしている娘の吟に、「心配ない、大丈夫だ」などと声をかけながら小舟を進めた。

 ようやく待ち望んだ岸辺が親子の視界に入り、互いが目を合わせて喜びの笑みを浮かべた頃、親子の安堵感をあざ笑うかの如く雨風は激しさを増し、いよいよもって嵐となり、強風と荒波が岸へ急がんとする小舟の行手を阻む。

 己はともかく娘の吟に何かあってはならないと、一太郎は必死の形相で腕がちぎれんばかりに小舟を漕いだ。

 風の勢いに乗った雨が目に飛び込み、もはや人が立っているのも困難なほど揺れる小舟の上で、彼は驚くべき平衡感覚と運動能力で見事に耐えたものである。

 体力の限界を超えようかという一太郎の血の滲む努力の甲斐あって、小舟は遂に岸辺まであと僅かのところまで辿り着いた。

 荒れ狂う海に落ちまいと小舟の縁に懸命にしがみつく吟が、二人を心配した母のお雛が嵐のなか岸辺で待っている姿に気づき、父の一太郎に身振り手振りで母が待っていることを伝える。

 砂浜の岸辺にて合羽と蓑傘を身にまとい、嵐を耐え凌ぎつつ待つお雛は、小舟に乗る一太郎と吟の姿に安堵し、「お帰りなさい」という意味を込め手を振った……その時!

 彼女の眼にかつて見たことのない物体が映り込む!

 黒く濃い霧のような物体は、一太郎と吟の乗った船の後方付近、海面から3mほど浮かび上がり、ウヨウヨと不規則な動きを繰り返していた。

 そのおぞましい姿にお雛はゾッとして青ざめたものだったが、なんとか二人に物体の存在を知らせようと指差しの合図を繰り返す。

 一太郎と吟がほぼ同時にお雛の合図に気付き後ろを振り返った。

 小舟と黒い霧状の物体との距離はおよそ10m。お雛よりずっと間近で物体を目撃した二人の背筋が凍る。

 吟に至っては此処まで泣かずに我慢していた心が、えも言われぬ恐怖に覆い尽くされタガが外れたように泣きじゃくった。

 可愛い我が子が恐怖に怯える姿を目の当たりにした一太郎は、己の感じた恐怖心を子を守るという強い意志で吹き飛ばし、ありったけの声で「吟!もうすぐ!もういっときの我慢だ!目を閉じて伏せていろ!」と励ます!

 泣きじゃくっていた吟は信頼する父親の声を聞くや直ぐに泣き止み、言われた通り目を閉じ伏せて身を守る形を取った。

 そんな我が子の様子を見た一太郎はひとまず安心し、血で滲んだ擦り切れた手で小舟の櫓(ろ)を握りなおす。

 とはいえ、厳しい漁師の仕事で鍛え上げられた彼の強靭な腕と手は、動かしていることが不思議なほどに疲労しボロボロの状態であった。

 岸辺への距離はもう僅か、しかもこの嵐の中で愛する妻が心配して駆けつけ、自分らの帰りを待ち望んでいる…
 
 愛娘と共に釣りをして楽しく過ごし、釣った魚を持ち帰って和やかに妻の料理を食す。ささやかな、ただそれだけの幸せな時間を過ごす一日になる筈であった…

 なぜ、なぜ神は慎ましく暮らす我が家族にこのような試練を与えたもうたのか?一太郎の頭にそのような想いが一瞬よぎる。
 だが、これが神の仕業かどうかなど今は関係ない。
 彼は漁師にしては殊の外穏やかな性格の持ち主であり、今まで叫んだことなど皆無と云っても良いほど理性の強い人間が喉が壊れんばかりに叫んだ!
 「絶対に生きて帰ってやる!!!」と…

 しかし、必死な父と子の「生きたい」という願望は無惨にも砕かれてしまうこととなる…自分達をこよなく愛してくれる妻であり、母でもあるお雛の目の前で…

 片や岸辺の砂浜に立つお雛は、二人を助けに行きたくてもどうすることもできない状況に、涙ぐみながら手を合わせ、「無事に帰って来て」とひたすら祈るばかり…

 無情で、無慈悲な、かくも世は恐るべしかな…背後に忍び寄った奇怪な黒い霧は、小舟に乗った二人の尊い命を、一瞬にして最も容易く奪い去ったのであった…

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