大好きだった父親のあり得ない言葉に韋駄地の心は凍り愕然とする。
「ち、父上は、な、何を言っているのだ…」
韋駄地の脳内が地震を体感するかのようにグラグラと揺らぎ、目に映っていた景色が別世界の如く一変した。
もし、父親の言った文言を鵜呑みにするならば、我が身をこの世から消し去ろうとしたのは愛する肉親ということになってしまう。
怪異である「鬼」と契約を結び強靭な肉体を持つ人ならぬ姿になったとはいえ、韋駄地の意識はあり、少年の頃より精神的な部分が急成長している訳では無い。
これが真実であり現実だと云うならば、まだまだ未熟な彼の心がグチャグチャになっても全くもっておかしくない事象となるであろう。
そんな折、部屋の外まで響き渡る紗夜の泣き声…
韋駄地が病に伏す以前より、誰よりも特別に可愛がり、己の病床となる小屋まで食事を運んでくれていた妹の泣き声に彼は思考を取り戻す。
「紗夜、泣くな…このような姿になりはしたが其方の兄はここに強く生きておるぞ…」
大切な妹へ届けとばかりに、誰にも聴こえぬ音量で彼は呟いた。
本当は妹の側に行ってそう言ってやりたかったのだが、己の現状を鑑みるとどう考えても出来るわけがないし、最悪の結果しか思いつかなかった。
韋駄地は最善策としてこの場を一旦離れること選び、冷静な状態で父親と一対一で話せる機会を設け、真相を確かめるべく決意を固めて夜を待ったのだった。
冬も近づきつつある肌寒い秋の夜に、韋駄地家屋敷の蔵の中に身を潜める韋駄地源蔵。
彼と血の繋がった実の父である韋駄地蔵之介(いだちくらのすけ)は毎晩食事を済ますと、一人で静かな時間を過ごす部屋へ移り、日記代わりに書道を嗜むのが習慣でありここ何年も欠かしたことがなかった。
無論、源蔵はそれを承知の上で蔵に隠れ、悪しき想いを押し殺しながら時期を待っていたのである。
「そろそろ行くか…」
古い木箱に座っていた源蔵がゆっくりと腰を上げ、灯り一つ無い真っ暗な蔵の中を移動し外へ出た。
夜空を見上げた源蔵の眼に映るは神々しく柔らかな光りを放つ満月…
「美しい満月だ…でなぜだろう。心がぞわぞわして落ち着かないな…」
それが怪異と化したために起こった影響なのか、それとも父親に対する怒りからのものなのか…ハッキリせぬまま源蔵は父親が居る筈の部屋へと向かう。
ほどなく部屋の外へ着くと、中にはロウソクの明かりが灯り、障子越しに韋駄地蔵之介の影が微かに揺らいで見えたのだった…
源蔵は部屋の前を通る木張りの廊下まで静かに移動し、障子を開けずに立ち竦む。
父親に会う直前になって部屋へ入るのを躊躇ったのは、昔の記憶を含め様々な想いが頭をよぎった所為であった。
と、人影に気付いた韋駄地蔵之介が障子越しに声をかける。
「そこに居るのは誰だ?」
「……………….」
源蔵が黙したまま動けず立ちすくんでいると…
「…源蔵だな?入るが良い…」
「!?」
父親の唐突かつ余りにも意外な言葉に源蔵は少なからず驚いた。だがいつまでも廊下に止まっていては事が進まない。腹を決めた彼は片手を障子に当て緩やかに開ける…
目の前には書道道具の筆を持つ父親の蔵之介が正座しており、不気味な姿の源蔵と目が合った瞬間に固まり、戸惑いたじろぐ表情が見て取れた。
「お、お、お前…源蔵なのか?」
実の父親が敢えてわざわざ確認せねばならぬほど、源蔵の姿は変わり果てていたのである。
父親の顔が強張るのを見た源蔵もまた動揺する。
「そ、そうだよ。正真正銘貴方の息子、長男の韋駄地源蔵だ…父上が驚くのも無理はない。僕は人に殺されかけたところを怪異によって救われ、このような姿になってしまったのさ」
「………….」
蔵之介が絶句して驚き、筆を持っていたのも忘れ畳の上に落とす。
その様子を正面から見下ろすように眺めていた源蔵が、己の優位性を感じ取り話しを進める。
「ところで父上。なぜ障子越しで立っているのが病床に伏している筈の僕だと思ったのです?」
「………..あ、ああ。お前の居る小屋に刺客を放ったのはこの父だからな…余りにも秤度の帰りが遅いものだから、夕方になって小屋を覗きに行ったのだ。さすれば小屋にあったのはお前の屍ではなく秤度の屍が転がり、お前の姿がなかったのでな…ひょっとしたら此処に来るのではと踏んでいたのだ…」
蔵之介は源蔵が訊いてもいないことまで捲し立てるように話した。
父親の口から真実が語られ、息子である源蔵の心は怒りと哀しみの混同する複雑なものとなった。
「なっ、なぜ?…病気と闘い、ようやく苦しみを抜けたというのに…」
此処で蔵之介の顔が覚悟を決めた男の精悍な面持ちに変わる。
「悪く想うな。と言っても無理があろうな…全ては伝統があり名家である韋駄地家のためだ。無論、知らぬとは思うが十日ほど前の日、俺は小屋を密かに訪れて外から中を覗き込み、病気によって変わり果てたお前の顔を見てしまったのよ…」
「………….」
黙する源蔵は父親の言葉を受け、己がどうするべきか頭の中で急速に処理する共に吟味した。
だが複雑かつ衝撃的な父親の告白に対し、圧倒的に短い時間のあいだで、人生経験の少ない十三歳の精神年齢が簡単に良い答えが浮かぶ筈もなく、源蔵は考えれば考えるほどに焦燥し苛立ちを覚えていく。
どうしようもなく複雑な心境に追い込まれた彼の脳と心はやがて、単純明白かつ楽にこの状況を脱するための方法を導き出す。それが理性からなのか、はたまた本能から導き出されたものなのかは当の本人ですら理解していなかったのだが…
「こ、殺す…殺す。殺してやる…その方が良い、良いに決まってる…父上!僕は貴方を殺すことに決めましたっ!」
韋駄地家の後継として大いに期待し、赤子の頃より此処まで大事に育て上げてきた実子からの死の宣告。
大事件になる様相を呈して来た現状に
源蔵の父、蔵之介は微塵も動揺することなく至って冷静に彼を真っ直ぐに見つめていた。
「…至極最もな判断だ源蔵。この父は韋駄地家のことを優先して考える余り、恐ろしくも息子のお前を殺そうとした罪深き人間。否、もはや人の道を踏み外した外道であろうな…手前勝手な話しだがお前に殺されるなら本望というもの。覚悟はとうに決めていた。さぁ、一思いにやるが良い…」
冷静沈着にして淡々と語る父親に、源蔵の爆発していた殺意が僅かに鎮火するも首を振って咆哮を上げる!
「ぅおおおーーーっ!!!望み通りやってやる!!!あの世へ逝ってしまえーーーっ!!!!」
源蔵が己へ向けられた刺客から奪った刀を鞘から抜き放って構えたその時!
「兄様!おやめ下さいっ!!」
背後から突然聴こえた女の叫び声に源蔵の身体が刀を構えたまま「ビタッ!」と静止する。
後ろを振り返らずとも声の主が誰なのか源蔵は察している。一つ下の愛すべき妹である紗夜に他ならなかった。
変わり果てた姿を見られてしまうことを恐れた源蔵が何も言わず固まっていると、目の前の蔵之介が紗夜に声をた。
「紗夜、もしや其方。話しを聴いておったのか?」
「…はい。父上にお酒を運ぶ折、廊下に立って二人が話すのを聴いておりました…」
幸か不幸か、紗夜の声のお陰で親殺しをすんでのところで踏み止まった源蔵が、やはり後ろを振り向かずに紗夜に話しかける。
「紗夜、すまぬが障子を閉め、部屋に入ってはくれぬか?…其方を含めて話したいことがある…」
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