このあと紗夜は足早にその場を去り、結局のところ会話を交わしたのはそれだけである。
けれども正体不明の病を患い、一生分の辛い想いを経験した少年にとって、極めて幸福かつ十分過ぎる出来事であった。
彼女のたった一言でどれだけ絶望から救われ希望を持てたことか…
その晩、少年は久しく静寂な水面の如く心穏やかにぐっすりと眠ることが出来た。
次の日、想像を絶する苦しみを味わうことになろうとは夢にも想わずに…
源蔵少年は満足のいく快眠によって新しい朝を清々しい気持ちで迎えた。
今日もまた今までと同じように紗夜が食事を運んで来てくれるだろう。その際にはもう少し会話を続けられるよう努力せねば。などと考えていると心に高揚感が湧き、不思議と身体も軽くなった気にさえなっていた。
上手くいけば、小夜が訪れるまでに立ち上がれるところを見せてやれるのではないかと練習したほどである。
秋の涼しき午前中だというのに、彼は身体に鞭打ち汗だくになって直立できるよう努力した。そして遂に…
「た、てた…」
脚はガクガクと小刻みに震え、生まれたての子鹿を想像させる危なげな姿であったけれど、少年は確かに人の基本的動作の一つを取り戻したのである。
だが喜んだの束の間、気が緩んで平衡感覚が崩れてしまい直ぐに座り込んでしまった。
「ハ、ハ、ハハ…」
少年は掠れる声で笑う。兎にも角にも完全回復への第一歩を踏み出せた己を褒めたい気分でいっぱいだったのである。
達成感のあった練習を終えた少年は、身体を休ませるため布団に寝転がり紗夜が訪れるのを待った。
暫くして少年がウトウトとし出した頃、外から人の歩いて来る音が微かに聴こえた。
少年は当然紗夜が食事を運んで訪れてくれたのであろうと思い、彼女と会話を交わすため小窓に這いつくばって近づく。
そして小窓が開くのをジッと見つめたまま待った。
だがいつもであれば小窓が開き食事が運ばれる頃合いなのになかなか開かない。
徐々に焦燥感を抱き、「何かがおかしい…」と思い始めたその時、小屋入り口の戸を開錠する音が聴こえた。
少年が訝しげな目で戸の方を眺めていると、木製の引戸が不気味にゆるりと動いて開き、小屋の中へ浪人風の見知らぬ男が無言で入って来た。
男は少年と目が合い、一瞬眉間に皺を寄せたあとズカズカと近づき彼に手鏡を突きつける。
「急だがお主に話さなければならぬことがある。まずはその手鏡で己の顔の有様を確かめるがいい」
「?…」
少年は戸惑いながらも手鏡を受け取り、男に言われるがまま己の顔を手鏡に映して確かめた。
江戸時代の「手鏡」とくれば「柄鏡(えかがみ)」と云う呼称の物になる。
柄鏡の素材は青銅であり、表面は錫(すず)によってメッキ加工され、綺麗に磨かれてはいたが顔がくっきりと映るような代物ではない。
そんな鏡に映る顔は多少は歪んで見えることもあるのだが…
「…?!…」
鏡に映る己の顔は確かに歪んで見えた。が、その歪み方が異様であり、健康だった時の己の顔と比べ、明らかに豹変してしまったことに言葉を失う…
正体不明な病に付して体力を激しく消耗し、食欲が無くなり食べていなかったことで痩せ細り、生きながらにしてミイラの如き容貌となっていたのである。
加えて病の所為で顔のつくりを維持する筋肉が衰え、左右の目の位置が均衡を保てず左右非対称となり、真っ直ぐすらっとしていた鼻筋に唇の位置も歪んでしまい、もはや「奇形」や「異形」といった言葉で表現せざるを得ない顔になってしまっていた。
どういった経緯でそうなってしまったのかは謎だけれど、少年のかかった病は他の者達とは特別異質なものだったのである。
神はなぜ、素晴らしい人間性と才能を持っていた韋駄地源蔵少年にこのような試練を与えたもうたのだろうか…
衝撃を受け身体が小刻みに揺れる少年に黙って眺めていた男が声をかける。
「どうだ。己の余りの変容ぶりに驚いて言葉も無かろう。俺も四十年近く生きて来たがお前のように酷く哀れな顔は初めてだ」
「……………….」
至極無礼なことを遠慮なく言ってのける男に沈黙で答える、否、言葉を発する気力を取り戻せず握った柄鏡を見つめたままの少年…
「…俺はお前の元の顔を知らん。だからどれくらい変わり果てたのかも知らんが、そんな醜い顔を長々と見ていても仕方あるまい」
男はそう言って少年の手から強引に柄鏡を取り上げた。
呆然とする少年が気力と思考を僅かに取り戻し、ボソボソと独り言を呟いたあと最優先で確認したいことを男に問う。
「さ、よ、は?…」
無論、今日も会話を交わす筈であった妹の紗夜のことであった。
「…さよ?誰だそれは?」
「い、い、もう、と…」
「…悪いが俺は昨日お前の父親から金で雇われたばかりの者でね。お前の兄妹のことはとんと預かり知らぬ」
「…………………」
この浪人風の男の言葉に嘘は無い。少年は男の様子からそう察して項垂れた。
「ふん。まぁ、そうがっかりすることはない。なんせお前は今日此処で俺に斬られて死ぬんだからな」
突然の死刑宣告に少年の落ち込む心は更なる衝撃を受けた。
今まで一度も会ったこともない見知らぬあかの他人。どうして己がそんな輩に斬り殺されなけねればならないのか?ことの道理が全く持って分からない…少年はどん底まで沈んだ心でそう思う…
どうせ殺されてしまうにしても、少年には一つだけ絶対に突きとめたいことがある…己の暗殺を企てたのは何処の何奴だ!?
「だ、だ、れ、の、しじ、で?」
少年はまだ自由に動かせぬ口で必死に問うた。
男が額に皺を寄せ、頭を掻きながら如何にも面倒臭そうに応じる。
「…知らん方がお前のためだ。それに俺は悪党だが雇われ者としての忠義くらいは心得ているのでな」
聞いた少年は憎悪の念を持って男を睨んだ。彼の歪に歪んでしまった顔で、果たして何処まで意思が通じるかは分からぬが、己の意思をかなわぬ口で伝えるよりも目で伝えたかったのであろう。
その目を見た男が少年に届かない程度の音量で呟く。
「ったく、気持ちの悪い目をしやがって…だがこのままだとポロッと喋ってしまうやも知れぬ…面倒なことになる前にさっさと仕事を済ますとするか…」
男はこれ以上少年と話すのは危険であると判断し、腰に付けている刀の柄に手をかけた。
いよいよ己のを斬って捨てようする男を見た少年はどうにか抗おうとするが、己の意思に反して五体の全てが微動だにしてくれず、突如として現れた「死」を前に焦りだけが一気に膨れ上がる。
少年は心の中で叫ぶ!「ことの真相を知るまでは死ねない!死にたくない!神でも死神でも悪魔でもなんでも構わない!俺の全てを捧げるゆえこいつに抗う力をくれーーーっ!!!!」
と、少年の心臓が「バクン!」と大きく鼓動した!
そして己の心臓から低く禍々しい声が脳裏に響き渡る!
『オレは人界で云うところの肉体を持たぬ怪異の鬼だ!オレと契約し共存の道を選ぶか?時間が無いさっさと返事しろ!』
突如として起こった怪奇な現象であったが少年は心の中で即答する。
『臨むところだ!俺は鬼と契約する!』
『カカカ良くぞ言った!これにて契約成立だ!』
鬼の声が途絶えると、少年の目の前には男が刀を振り下ろさんと構えていた!
「俺を恨むなよっ!!」
男が言い放ち少年の首に狙いを定め刀を振り下ろす!
刀の刃が首を捉えようとした刹那!
「パキィン!!」
あろうことか、刀は少年の右腕によって、否、少年の肩から伸びる異様に赤い極太の腕によって容易く叩き折られたのだった!
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