人と、得体の知れぬ怪異との非現実的な命懸けの契約。
幼き頃より「鬼」と契約したであろう韋駄地が、果たしてどういった経緯でそれを成した得たのか?それとも、自らの意思とは無関係に結んでしまったのか?いずれにしても当の本人に訊かなければ謎のままである。
好奇心旺盛な仙花が訊くという流れもあろうが、ここは語り手として誰に言われずとも語っておかねばなるまい…
韋駄地源蔵の生まれは、将来「九州地方」と呼ばれることになる西海道(さいかいどう)所属の薩摩国であった。
由緒正しき武家の五人兄弟の長男として生まれた彼は、韋駄地家の跡取りとして厳しくも大事に育てられた。
彼は十三の歳になるまで身体は人並み以上に丈夫であり成長が早く、頭も周りの子供達とは一線を画し、周りの大人達からは「神童」と呼ばれたほどである。
無論、彼の両親は優秀な長男をたいそう可愛がり、下の弟や妹達にも自慢できる兄を見習い精進するよう教えていた。
弟二人に妹二人の五人兄弟であった韋駄地は、両親の思惑を知ってか知らずか弟や妹達の面倒をよく見て可愛がり、彼らからも信頼され大いに慕われていたものである。
人柄は朗らかで責任感が強く、いつも柔かに見える顔つきだったものだから、大人達からも好かれる方言で云うなれば「ヨカニセ」な男であった。
そんな将来有望であった筈の韋駄地源蔵がなぜ、側から見れば悪夢の如き人生を歩むことになってしまったのか?
勿論、天草四郎の下で戦った「島原の乱」の敗戦が影響していることもあったが、真に人生を左右する出来事があったのは十三歳になった夏の頃である。
この夏は例年に比べ日照りの日が長く続き田畑の水不足が深刻化し、ただでさえ食糧不足な時代に追い討ちをかけ、影響をもろに受けた町や村では多くの餓死者を出した。
韋駄地の住まう町でも多くの餓死者が現れ、最悪というか当然の流れというか、様々な種の疫病が大流行してしまう。
彼は持ち前の体力と正義心から、病にかかった人々に声をかけて元気付け、日常の家事などを手伝うこともしばしばあった。
この行為は助けを受けた人々から感謝され、賞賛すらされたものだが両親としては鼻が高い反面、彼自身が病にかかってしまうことを懸念し恐れていたものだが、不幸なことにこれが現実化してしまう。
病に倒れた韋駄地は家族の居る屋敷から少し離れた小屋に隔離され、家族の誰とも顔を合わすことのない闘病生活へと入ることになる。
少年の人生を狂わせてしまう長く孤独な時間…
布団の上で一日中高熱にうなされ、暑い夏の小屋の中で大量の汗を掻き酷い脱水症状に襲われる。
小屋の壁に設けられた小窓から差し入れられる料理には、食欲と体力も失われているため一切手をつけられず、誰も目にすることはないまま韋駄地は痩せ細り憔悴していった。
この苦しく悲惨な状況が長らく続き一月もの時が流れた頃、永遠に治らないとも思えた病がついに快方の兆しを見せ始める。
彼は十三歳にして死の恐怖を一ヶ月ものあいだ体感し続けたけれど、生きたいという強い想いから病に打ち勝ち、とうとう長く暗い絶望の洞窟を抜けることができたのである。
とはいえ、まともに食事を摂れていなかったため、憔悴しきった彼の身体はなかなか回復出来ずにいた。
だがこれは単に食事を摂れなかったことが原因ではなく、不運にも彼の身体にはとんでもない異変が起きていたのである。
一月ものあいだ下がらなかった熱は彼の脳細胞を破壊し、達の悪い謎の病原菌が身体全体をくまなく蹂躙してしまっていたのだ。
本来なら若い彼の身体は強力な新陳代謝により回復していく筈なのだがそれがほとんど機能せず、熱が下がった時点から一週間が経過しても立ち上がることすら叶わなかった。
頭の中もかつてのよう冴えは蘇らず、ぼんやりとした記憶や考えしか浮かばなかった。半ば思考が断続的に停止しているような状態である。
それでも若い少年は生きることを諦めない。
誰やも知れぬ、顔を今まで一度も拝んだことのない者が毎日食事を運んで来る。いつも壁の小窓から投入し置いて何も話さず去っていくのだが、少年は立ち上がれないため這いつくばって小窓まで近づき、飯を鷲掴みにして口の中へ放り込むとたっぷり時間をかけて咀嚼し呑み込んだ。
こうして食事を摂れるようになってまた一月の時が流れる。
少年はぼんやりとする冴えない頭で考え、病になる前の自身のことを思い出し、元気な姿に戻って大好きな家族とまた普通の暮らしがしたいという強い願望を持ち、生きようとするとてつもなく固い意志で身体の回復に努めた。
その甲斐あってか、未だ立ち上がれないながらも身体を起こして食事を摂れるまでに回復し、か細く嗄れてはいたが言葉を発するまでになったものである。
病が治ってからというもの日々気分は優れなかったが、ある日のこと少年はふと想う。
病は治まり、至極遅れているとはいえ体調も回復に向かっているというのに、なぜ家族は誰一人として会いに来てくれないのか?
病に倒れる以前までの自分は家族に愛され、町の多くの人々にも好かれていた筈ではなかったのか?
百歩譲って町の人々がこの小屋を訪れないのはまだ分かる。だが同じ血を分けた家族が誰一人として会いに来ない理由はいったい何だというのだ?
自惚れではなく優秀で将来有望だった自分を優しい父と母の二人は愛してくれていたのは間違いなかっただろうし、弟や妹達も自分を頼りにし大いに慕ってくれていた筈だ。
ぼんやりと回らぬ頭で考えれば考えるほど理由が分からない。もしや家族は皆何処ぞの悪党に襲われて亡き者になってしまったのだろうか?
それとも自分と同じ病にかかってしまい、家族の住まう屋敷がとんでもないことになっているのでは?…
などと床の上で幾ら考えても所詮は無意味で憂鬱な空想に過ぎない。
源蔵少年は人間の基本的動作である歩行すら困難な状況ではあったが、家族が訪れない真相を確かめるため、不憫な現状で可能な限り行動に移すことにした。
手始めに小屋へ食事を運んで来る者が誰であるのか探ろうと考えた。
思い立った翌日の正午、布団を極力壁の小窓に近づけ食事を運ぶ者を寝て待つ源蔵少年。
「カチャカチャ、カチャカチャ」
いつもの時間にいつもの茶碗の擦れ合う音が聴こえ、すべからく木製の小窓が開いた。
お膳を持つかなり細めで白い両腕が見えた。
恐らくは女性であろうと予測を立てた少年がか細く嗄れた声を発する。
「も、し…す、こ、しだ、け、はな、し、を…」
するとその女性らしき人物はお膳を持つ手を緩め、「ガシャン」と床に荒々しく置かれ、サッと両腕を引っ込めて小窓を閉めてしまった。
だがその人物が立ち去る物音が聴こえない…
ひょっとすれば去るのを躊躇し、こちらの出方を待っている可能性がある。
一遇の機会、少年はか細く嗄れた声では外に届くまいと、小窓に近づき一所懸命に腕を伸ばし「コン、コン」と軽く叩いた。
すると、暫くしてまた小窓が開く…
「源兄様、紗夜にございます…」
周囲に気を遣っているのか声が小さく聴き取り辛い。しかし少年の耳には確実に届いていた。
病に伏す自分に毎日欠かさず食事を運んでくれたのは、一番可愛がり仲の良かった一つ下の妹の紗夜だったのである。
心から待ち望んでいた家族である人の声を聞き、少年の胸は熱くなって震え、目からは大粒の涙が溢れた…
「さ、よ…あ、り、が、とう…」
「いいえ、源兄様。それより早く良くなってくださいませ」
力を振り絞って出した声は彼女へ無事に届いたのだった。
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