お銀がぽかぽか陽気の日に氷の如く冷たい視線を雪舟丸へ送る。
「ああそうかい。あんたの噂は以前から時折り耳にすることがあったれど、拍子抜けさねぇ。てんで的外れだったみたいだよ」
早くも握り飯をムシャムシャと食べる雪舟丸が眉をピクッと動かして訊く。
「….ふぉう、ほれふぁいっふぁいふぉんなふふぁさふぁ?」
「あんた…口に食べ物入れたまんま喋るんじゃないよ。あたしじゃなければ理解すらしてもらえないだろうに」
どうやらお銀は聴き取れたらしい。
「時の大剣豪、『二刀流の宮本武蔵』に剣の勝負で勝ったという噂さ。だがあんたを見ているととても本当だとは思えないねぇ」
口に残った握り飯をゴクンと飲み込み雪舟丸は言う。
「ああ、それは間違ない。宮本殿とは十年ほど前に勝負して勝っておる。まぁ、絶頂期をとうに過ぎた剣士に勝っても自慢にはならんがな。されども剣の腕にはちょいと自信がある。旅先で強敵が現れたなら、寝ているそれがしを敵の前に差し出すがいい。片っ端から斬ってやる」
自慢げな口調ではなく、ただ淡々と言い放った言葉は不思議と真実味を帯びていた。
「へぇ〜。『宮本武蔵』に勝ったっていう噂は本当だったんだねぇ。じゃあ敵が現れたら遠慮なくあんたを差し…」
「すぴぃ〜、すぴぃ〜、すぴぃ〜」
「ったく、どんだけ寝れば気が済むのかねぇこの男は」
朝から寝てばかりの雪舟丸は握り飯を食べ終わると既に寝ていた。
されども、いくら絶頂期を過ぎていたとはいえ、最強と謳われた宮本武蔵に勝ったこの居眠り侍の実力は計り知れない。
それはそうと、お銀がなかなか喉を通せずにいたお猪口の酒を飲み干す。と、目の前で握り飯を食べながら川の方を見ていた仙花が口を止め、握り飯を手放しスクっと立ち上がり妙な行動を取り出した。
自身の身につける旅装束の腰巻きに手をかけたかと思うと、あろうことかあっという間に脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿を晒したのである。それはそれは瑞々しくも美しい姿であったが周りの者達は…
「せっ!?」
「ぶぅふぉぉぉぉっ!?」
「なんとっ!?」
「すぴぃ〜、すぴぃ〜」
お銀は余りのことに絶句し、九兵衛はむせて口の中の握り飯を堪らず吐き出し、蓮左衞門は顔を真っ赤にして両眼を両手で塞ぎ、雪舟丸は当然だが眠っていた。
素っ裸の仙花は何も言わずただ無心に川の方へ走り出す。
「仙花様っ!川はおやめください!」
冬の雪解け水が微かに残るこの時期の川の水はとても冷たく、まだまだ人が泳げるような温度ではない。お銀の制止する声は仙花に届かず、冷たく流れる川の中へ勢いよく飛び込んだのだった。
そのまま川を横断するように真っ直ぐ泳ぐ。
彼女の水泳経験は何度か光圀に川へ連れて行かれ泳いだ程度だったが、経験の浅さを感じさせない素晴らしい泳ぎっぷりであった。
突拍子もない仙花の行動に唖然とした表情だった一同。
うち、両目を塞いでいた蓮左衞門が手を外し、彼女の泳ぐ先にバシャバシャと水をはねらせるなにかを見つけた。
「ん?あれはぁ…わ、!?童が溺れているでござる!こうしてはおれぬ!」
蓮左衞門は叫ぶや否や旅装束を破るように脱ぎ捨て、白いふんどし一丁の姿で仙花の跡を追うように川へ飛び込んでだ。
だが、彼女の手助けをせんと勇んで行動に移した蓮左衞門に異変が起こる!
「わっぷっぷぷ!!きゅっ、九兵衛!助けてくれぇっぷ!せっ、拙者っ!金槌なのっを!わわっぷ」
川へ飛び込んだはいいものの、どうやら蓮左衞門は意外にも本気で金槌だったらしい…
「…やれやれ、体力馬鹿のくせにまさか泳げないとはねぇ」
見ていたお銀が額に手をあて首を振り憂鬱そうな表情をする。
「ま、今行きますんで待っててくだせぇ!」
助けを求められた九兵衛が慌てて旅装束を脱ごうとする。が、此処で彼は「うっかり九兵衛」の本領を発揮してしまう。
「うぉっととっと!?」
慌てて脱ごうとした旅装束が頭と首に絡まり、無理に動こうとして体勢を崩してすっころんだのだった。
「…..な………..」
想像するに容易いが、お銀は何かを言おうとして面倒くさくなりやめた。
九兵衛がなんとかふんどし一丁の身となり、溺れる蓮左衞門の元へと向かう頃には水面に腕だけが残って沈みかけている。
幸いなことに岸から僅かしか離れおらず、ギリギリ九兵衛の足が水底に着く位置だったおかげでなんとか救援することが出来た。
「ふ〜。間に合ってよかったでさぁ。危ないところでしたねぇ」
「か、かたじけない…」
蓮左衞門は朦朧とする意識の中で呟くように言葉を発した。
身体が動かなくなった蓮左衞門の両脇を抱え、後ろ向きでゆっくり岸へと進む九兵衛の横を、背中に幼い女子を乗せた仙花が泳いで通る。
「せっ、仙花様。お見事です」
九兵衛が褒め称えると、仙花は余裕の笑みを浮かべて見せた。
岸へと辿り着き、女子を抱き抱えながら川から出ようとするところへお銀が駆け寄り旅装束の上着を仙花に被せる。
「躊躇なき人助けとは天晴れににございます。されども乙女としての恥じらいも…」
お銀が説教しようとした口を手で制した仙花が女子を地に寝かせ、穏やかな顔を作り話しかける。
「其方、なぜ一人で川などに入ったのだ?見るにまだまだ幼いではないか」
溺れかけた幼い女子(おなご)は疲弊した様子であったが、どうしても伝えなければならないことがあり声を振り絞る。
「橋から落ち、て…お、おっとうとおっかあが、お、襲われ、る」
「なにっ!?其方のご両親は今どこにおるのだ!?」
仙花の表情に緊迫感が走り、女子には辛かろうと思ったけれど火急の状況と悟り更に問うた。
女子が横目で遠くを見つめて指差す。
「あ、あのは、し…」
もはや女子の声は今にも消てしまいそうなほど小さく掠れていた。
仙花は指差す方向へ視線を移し、遠くにある橋を確認するとお銀に伝える。
「お銀、儂はあの橋に向かうゆえこの子を頼む!」
「えっ!?仙花様お待ちを!」
お銀の二度目の制止も振り切った仙花は、側にい置いてあった矢筒と弓、それに加え光圀より授かった脇差の「風鳴り」を掴み取ると、旅装束の上着一枚の姿のまま駆け出してしまった。
「九兵衛!蓮さんは恐らく大丈夫に違いない!この子を任せたぞ!」
お銀はそう言い残して足早に仙花の跡を追った。
「へっ!?へいっ!任せておくんなまし!」
遅れて返事をする九兵衛。お銀に強い口調で言われ只事ではないことを悟り、蓮左衞門をぽいっと放置して女子の看病にあたる。
一方の仙花は上着をひらひらさせ、美しい白い肌を見え隠れするのも気にかけず、疾風の如く河原を駆け抜け橋へと向かっていた。
脚には絶対の自信を持つ追うくノ一のお銀が全力で飛ばすも、仙花との距離が縮まらないことに驚愕してこぼす。
「なんて速さだい。このあたしが追いつけないなんて…」
正に風を切るように駆ける仙花の目に、橋の上にいる五人の男達と、その前に土下座して平伏す男女二人の姿が飛び込んだ。
そして五人のうち一人の男が今にも刀を振り下ろさんと構えている。
「ちっ、間に合うか?」
呟いた仙花は走る脚を止めず、背中に担いだ矢筒からー本の矢を取り出し弓を構えしならせた。
「バシュッ!!」
驚いたことに、放たれた矢は弧を描かず凄まじい速さで鉄砲玉の如く一直線に標的の男へと飛んだ!
「ゴブッッ!!」
「っ!!??」
矢が男の頭に直撃し頭蓋骨を砕き貫通する!
女子の父母を斬ろうとしていた哀れな男は、我が身に何が起こったのかすら理解できぬまま、頭から血飛沫をあげその場に崩れ落ち絶命した。
「なっ!?なんだっ!?なにごとだっ!?」
後ろで武器を構えた四人のうちの一人が目の前で起きた惨劇に震え狼狽する。
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