仙花が口にした「座頭市」の名は、近頃水戸藩周辺の地域に出没している盲目の旅人のものである。
西山御殿まで伝わった風説によれば、盲目でありながら杖を突きつつ徒歩で一人旅をしており、見たものは僅かであったが、恐ろしく剣の腕が立つ者らしい。
これは常に世間の情報を集めている光圀から仙花が興味深く聞いたものだった。
「仙花。雪舟丸は巷で噂の座頭市とは何の関連もない侍じゃ。それにその男の眠りを妨げてはならぬ。起こさずとも旅は出来るから安心せい」
「何を言っておるのだじっさまよ。儂らの旅は馬を使わぬひざくりげだぞ。寝ながらどやって旅をするというのだ」
仙花の疑問はもっともであろう。
眠ったまま旅路を歩む輩が果たしてこの世に存在するのだろうか…
「まぁ雪舟丸のことはしばし忘れよ。心配せんでも旅が始まれば直ぐに分かるというものだ。それよりお主の準備は万全なんじゃろうな?」
「おっと如何!いろいろ準備せねばならんかった!じっさま、また後でのう」
仙花は慌てふためき部屋を出て行った。
バタバタではあったが皆の準備が整い、いよいよ出発の時となる。
西山御殿の庭には旅をする仙花、蓮左衞門、お銀、九兵衛、やはり眠り続けている雪舟丸の五人。
それに見送る側の光圀、絹江、滝之助の三人が顔を揃えた。
外は春の陽気で少し暖かくなりつつあり、天は旅路の門出を祝うかのように晴々としている。
「よしよし、皆揃ったようじゃな」
頗る出発を嬉しそうにしている仙花を筆頭に、他の四人も至って元気そうに柔かな顔つきをしている。昨夜呑み比べで大量の酒を倒れるほど呑んだお銀と蓮左衞門は、九兵衛特製の薬のお陰もあってかすっかり体調が良くなり、九兵衛の薬師としての腕前を褒め称えたものだった。
光圀の意向で六年ものあいだ西山御殿の庭より先にほとんど出ることが叶わなかった仙花。兎に角早く出発したいのか右手を挙げ軽く振って言う。
「では行って参るぞ!」
「いやいや待て待て。まだお主に渡すものがあるんじゃ。気持ちは分かるがそう慌てるでない」
今にも歩き出しそうだった彼女を焦る光圀が引き留めた。
そして懐から大事そうに何かを取り出し仙花へ差し出す。
「ん?これはなんぞ?」
受け取った仙花がすぐさま問う。
差し出された代物は木製の薬入れのような形をしており、全体的に光沢のある黒色に金色の綺麗な模様が施されていた。
「これはのう。徳川の家紋が入った『印籠』というものじゃ。この世に二つとない特別な代物でのう。これを人に見せればお主が徳川家の一族であることの証明にもなるのじゃよ」
「印籠ねぇ…確かに人へは天下の徳川一族であることの意味は大きかろうな。しかし怪異を相手どって印籠を呈しても意味は無かろう。鬼や天狗のキョトンとする様が目に浮かぶわ」
仙花のずれた価値観から、徳川家紋入りの印籠が泣いてるようにも見える。ついでに光圀の背中にも哀愁が漂っていた。
「つ、つべこべ言わず持っておれ。怪異相手に役立つものではないが、いつの日か必ずお主の役に立つ筈じゃ」
「うむ、承知した。お守り代わりとして大切にさせてもらうことにするぞ。ほれこの通り感謝する」
光圀の残念そうな顔を見た仙花は柄にもなく?気を遣い頭を下げ、上げ戻した瞬間に満面の笑みを作って見せた。
「うむ、大切にせよ」
仙花の笑顔で光圀が悦に浸る。
彼女の取った行動と光圀の様子を眺めていた他の者達は密かに胸を撫で下ろした。
「まだ渡すものがあるぞ。滝之助、あれを蓮左衞門に預けるのじゃ」
「はっ!」
指示を受けた滝之助が社の入り口に走り、如何にも重そうな『千両箱』を如何にも重そうに抱えて来た。
「ご、御老公。無礼な物言いかもしれませぬがあれは本物の千両箱にござるか?」
蓮左衞門が信じられない物を見るような目をして訊いた。
それはそうであろう。
千両箱などという珍しい代物は、生涯通して目にすることの出来る者はほんの一握りしかいないのだから。
「こっこっこっ♪もちのろんじゃ。本物の千両箱に本物の金が千両入っておる。これは旅の軍資金。お主を旅の勘定奉行に任命するゆえ堅牢に管理するのじゃ。良いな?」
「はっ!その大役、この槙島蓮左衞門が命を賭して完遂させていただくでござる」
蓮左衞門は跪いて畏まり、「勘定奉行」の大役を恭しく承ったのだった。
両腕をプルプルとさせ、両足もガクガクの滝之助が額に冷や汗を掻いている。
「れ、蓮左衞門よ。早々にこの千両箱を引き取ってくれ。箱の重さで腕が千切れそうだ」
「おっと!これはすまぬ滝之助殿。今預かるでござるよ」
そう言って怪力の持ち主の蓮左衞門が千両箱をヒョイと受取り、既に背負っていた大量の荷物の中へ組み込んだ。
蓮左衞門の準備が整ったのを見て取った光圀が真剣な面持ちで口を開く。
「仙花よ。お主に渡せる物は全て渡した。苦難の旅になろうが、くれぐれも命だけは粗末にするでないぞ」
「重々承知しておるよ。滝之助に絹江、じっさまのことをよろしく頼むぞ」
声を掛けられた二人が無言で頷く。
「では我が娘仙花よ。行くが良い」
「うむ、行ってくる。じっさまぁ、達者でな!」
仙花は最後に元気で美しい笑みを見せたあと、蓮左衞門、お銀、九兵衛、雪舟丸の四人と共に西山御殿の坂を降り、長い長い世直しの旅路を歩み始めたのだった。
遠く離れた道を歩く仙花達の姿を、視界から消えるまで見届けた光圀の背に向け絹枝が声をかける。
「行ってしまわれましたねぇ。仙花様」
その場に立ち尽くす光圀の脳裏には、仙花と出逢った日から六年間の思い出が走馬灯のように流れていた。
辛うじて絹枝の声を拾い呟くようにして言う。
「あの子ともう少しだけ一緒に時を過ごしたかったのう。あっという間の六年じゃったわい。だが儂の人生で最高の日々を送らせて貰った。これが今生の別れにならぬことを願うばかりじゃて……」
光圀の声には若干の震えが感じられた。
そのことを察した滝之助が光圀を気遣う。
「光圀様…もはや仙花様一行の姿は見えませぬ。縁側にでも腰掛け、暫く休れた方がよろしいかと存じます…」
「……………….」
聞こえている筈だが光圀は微動だにせず黙していた。
絹枝がその様子から察し、滝之助の側に寄り耳打つ。
「光圀様は振り返られぬ理由があるご様子。暫くそっとしておいて差し上げましょう」
「…………..あっ」
耳打ちされた言葉で滝之助もようやく気付き、二人は目配せして音を立てずに社へ入って行った。
この時、光圀が心配してくれる二人の方を振り返らなかった理由とは、声こそ出していなかったものの、目尻から大粒の涙が溢れていたからに他ならない。
「まさか、天下の徳川光圀にこれほど涙を流す日が訪れようとは…人生とはほんにわからんもんじゃのう…」
ある程度の心傷はとうの昔に覚悟していた光圀だった。が、現実に目の前から仙花が消えるという事実は、人生の熟練者である年寄りの胸を格別に締めつけた。
「仙花、必ず、必ずや儂の元へ帰ってくるんじゃぞ…」
光圀は声を振り絞ってそう呟き、口を閉ざして暫くのあいだ蒼天を眺めたのだった。
爽やかで心地良い風が吹き、近くからは可愛い鶯の囀りが響く春の朝の一幕はこうして閉じた。
一方その頃、仙花の一行は雪舟丸の「居眠り歩き」について盛り上がっていた。
通常、人が一度眠りにつけば自らの意思で身体を動かすことは不可能、と考えるのが当然であろうし当たり前である。
だが一行の常識は見事に覆されていた。
一行の最後尾を歩く無精髭を生やした侍の阿良雪舟丸は、「すぴぃ~、すぴぃ~」と寝息をたて健やかに眠っている。つまりは寝相どころの騒ぎではないわけだ。
美貌を持つお銀が唇に手を当て美しく笑う。
「くくくっ、寝ながら歩く人など初めて拝見しましたよ。誠に器用なものですねぇ…」
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