光圀が微妙に目を細め、重要な話しをする際に時折見せる真剣な表情を作り出す。
「無論じゃよ。お主も知っておるとは思うが…妖怪、いわばこの世の者とは思えん怪異の存在をお主も一度や二度は耳にしたことがあるであろう?」
「…….うむ。絹江や滝之助から鬼やら天狗やらのお伽話なら聞いたことがあるぞ。それが怪異と言うならば儂も知っておることになるのう」
「今言うた鬼やら天狗やらは正に怪異の典型的な者達じゃ。その者達が集い長い行列を形成して行進するのを『百鬼夜行』と云うんじゃが…肥後の阿蘇山にて目撃されたのを皮切りに、日向の新燃岳、大隅の桜島、そして最後に薩摩の開門岳で目撃したと云う知らせが一年ほど前隠密に江戸幕府へ届いておるのじゃ」
「ほうほう…して、それがどうしたというのだじっさまよ」
黙って聞いていた仙花はことの重要さを理解していないのか、意に介さず呆気らかんとした表情をしていた。
だが光圀は辛抱強く丁寧に話しを続ける。
「百鬼夜行というものはのう仙花。儂も長年生きておるが未だかつて見たことは只の一度も無いし、真しやかな単なるお伽話と思っておったんじゃが調べるうちに恐るべき事実が発覚したんじゃ。此度の目撃された百鬼夜行は真実性が高く、ある伝承によれば起こるべくして起きた大災厄の前兆らしいんじゃ」
「なるほどのう……じっさまよ。長話は朝の早起きより苦手ゆえ率直に言わせてもらうが、その大災厄をもたらすであろう怪異達を儂が仙女の力を手に入れ滅ぼせば良いのじゃな?」
ここで仙花がようやく持ち前の頭と勘の良さを働かせ、光圀の言わんとしていることを端的にまとめ口にしたのだった。
「……..そういうことじゃ。お主には悪いと思っておるのだが、実のところ今の幕府には得体の知れない脅威を退けるような戦力を割く余裕が無い。否、天下の愚将徳川綱吉に期待するは阿呆の望むところよ。彼奴では百鬼夜行に集いし怪異どもを滅ぼすことなど夢のまた夢なり」
光圀自身が推して将軍となった「生類憐みの令」をもって世間より忌み嫌われる徳川綱吉。
それだけに口惜しいのであろう。言葉には幾分か怒気が含まれていた。
「だからというわけでも無かったりあったりなんじゃがの。お主が仙女の力を手に入れることが出来れば怪異達にも太刀打ちできよう。だが、もし失敗すればその力は怪異どもに遠く及ぶまい。帰って来いと言ったのは無駄死になどせず生きて帰れという儂の強い願望なんじゃよ」
仙花に光圀の言い分が伝わりにっこりと屈託の無い笑みを見せる
やはりこの娘には笑顔が一番似合う。
「儂のことを大切に想ってくれているのは十分伝わった。本当に嬉しいぞ、じっさま♪…しかしだな、一つわがままを言わせてもらおう。儂はのう、出雲の仙人に会い試練を受けたとして、たとえそこで仙女になれずとも、そのまま薩摩の地を目指し旅を続けようと想っておるよ」
驚いた光圀が間髪入れずに言う。
「馬鹿なことを申すな。お主が強いとはいえまだまだ中途半端だと言ったであろう。念を押しておくが、仙女になることが叶わねば必ず帰って来るんじゃぞ。良いな!」
「うむ、こればかりは断じて断ずるぞ」
仙花は正座の姿勢のまま真っ直ぐ視線を合わせ老人の願望をバッサリと断ち切った。
光圀は一瞬言葉を失ったがなんとか気を取り戻す。
「……….頑な、じゃな。仙花よ」
「そうだな、じっさま。だが聞いておくれ。不思議じゃが百鬼夜行の話を聞いてからというもの身体ウズウズしてしょうがないのだ。儂が旅に出て怪異どもとやり合うことは宿命なのかもしれん」
「……そうか….」
真剣な目で話す仙花を前にして偉大な人物が肩を落とす。年齢は離れているが、光圀は彼女を実の娘とも孫ともいえるほど大事にし可愛がり育てて来た。その娘が命をかけて言うわがままに気落ちした彼を誰が責められようか。
「お主の心中は察した。だが….」
気落ちした光圀が心を決め何かを伝えようとしたその時。
二人のいる寝室の襖が静かに開き、黒い人影が部屋に入って来た。
「おやおや、まだおやすみではございませんでしたか?余計なことかもしれませぬが光圀様も仙花様も明日のためにもそろそろご就寝された方が良いのでは?」
人影の正体は宴の席だというのに、少し飯を食った時以外はずっと眠り続けていた「居眠り斬りの雪舟丸」であった。
意外な人物の登場に引くほど驚いた二人だったが、話す雪舟丸の行動により無理矢理声を押し殺す。
彼は二人に話しながら左手の人差し指を口元に立て、「静かに」といった合図を送り、もう片方の人差し指で天井を指し、何者かが侵入していることを知らせたのである。
「ささ、水入らずの大事な会話を終わらせてしまうのは心痛いが、今宵はこの辺で終幕と致しましょう」
雪舟丸はそう言いながら天井の一点を見つめて長刀の柄に手をかけた。
「何処の大鼠か知らぬが、折角の親子水入らずの会話を盗み聴きするとは万死に値するぞ!」
「ザン!」
天井を目にも止まらぬ抜刀術で突き刺したのだった!
突き刺した長刀を天井から抜き雪舟丸が零す。
「手応え無し…逃げられたか….」
ゆっくり納刀する雪舟丸に光圀が訊く。
「曲者か?もしや儂と仙花の会話は最初かられていたのかのう?」
「恐らくは。しかしいつから天井裏にいたかは残念ながらわかりませぬ。拙者がもう少し早く感知していれば…」
剣術の達人にして気功術も達者な雪舟丸は、居眠り中の自己防衛の一環として半径10mほどの範囲に気を張り、その空間に何かが侵入すれば察知することができるという「気園(きえん)」なる技を持つ。
「気にするでない。儂と仙花は上に曲者が忍んでいようとは微塵も気づかんかったからのう。だが、僅かでも手掛かりが欲しいところであったな…」
「曲者に気付き部屋に入る前、念のため寝ていたお銀を起こし屋根に回り込むよう伝えてあります。あとは彼女次第かと…….」
西山御殿の屋根上を満月に近い月が神々しく照らす。
その場には、着物姿で寝入っていたはずのお銀が灰色の忍び装束を身にまとい立つ。
彼女の目前には一目でそれと分かる漆黒の忍び装束に身を包む忍者が腰をかがめていた。
「天下の水戸光圀公社によもや忍び込む者が居るとはねぇ。あんた何者だい?…いや待て、貴様、あたしと何処かで会ったことがあるな?」
大酒をかっ喰らって倒れ、爆睡していたとはとても思えないはっきりとした口調で問い正すお銀。
「…無駄な問いをするくの一だな。問われてほいほい名乗る忍びなどこの世にいるものか」
声で男だと分かるが黒頭巾を被っており夜の暗さと相まって曲者の顔までは把握できない。
だが頭巾を被らないお銀はしたり顔でニヤリと笑う。
「お主、さては駿河の抜け忍「雲隠れの磨伊蔵(まいぞう)」、だな?忍者界隈でもその腕は超一流と聴いておったが、存外そうでもないらしい」
「……………….」
想定外に的を射られたのか男が口を閉ざす。
お銀の情報網は忍者の世界でも一二を争うほど広い。さらに記憶力も優れる彼女は一度聴いた人の声はほぼ完璧に覚えていた。
「ほんに間抜けな忍びがいたものだ。肯定も否定も成さず沈黙をもって答えるとはねぇ。ついでに誰の使いなのか教えておくれよ」
「…..流石は『妖の銀狐』とでも言っておこうか。正体は知られたが雇い主を明かすほど俺も馬鹿では無い。それに貴様を此処で消しておけば俺の正体を他の者に知られることもあるまい」
磨伊蔵はそう言い背中に結びつけた鞘から刀を抜き放った。
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