「ふぅん、何だか犬の遠吠えのように聞こえるわねぇ。あたしはもう三十杯目を呑み終えたところだけれど、蓮さん、貴方は未だ二十五杯目よぉ。ちゃぁんと数えていたのだから間違い無いわぁ♪」
多量の酒を呑みながらもまだまだ意識のしっかりしているお銀は、蓮左衞門に冷たい視線を贈りお可笑しそうに鼻で笑った。
蓮左衞門が「まさか!?」と驚きの顔をし、お銀を指差しながら数を数える光圀に無言で訴える。
「確かにお銀は三十を超えておる。お主とは五杯以上の差がついてしまったぞ」
小さく頭を振り光圀は答えた。
「ぬぅぉおおおーーーっ!男として!いいや大酒豪の誇りに賭けて負けるわけには如何でござるよーーーーっ!!!九兵衛!もっと!もっと早く酒を注いでくれい!!」
普段の蓮左衞門からは想像できないような雄叫びをあげ、盃の酒を一気呑みで片付けていく。
だがこれがいけなかった。
一気呑みを始めてからは九兵衛が立て続けに五杯の酒を注ぎ、それを豪快に呑み干した蓮左衞門は白目をむいて前のめりに倒れ意識を失ったものである。
「あらあらあら、大酒豪が聞いて呆れちゃうわねぇ。結局残ったのがあたしと仙花様の二人とは、笑えるやら笑えないやら……」
蓮左衞門を見下す目をしたお銀が辛辣な言葉で吐き捨てた。
そして一騎討ちの相手となる仙花の方を向き絹江に問う。
「絹江さん。仙花様は今で何杯目でしょう?」
額に汗を垂らしながら仙花の盃に酒を注ぐ絹江が目線を盃に向けたまま言う。
「信じられないでしょうけれど今注ぐ酒で四十八杯目にございます。お銀さん。もうどうか白旗を揚げておくんなまし。わたしは仙花様のことが心配で心配で…」
「まっ!?えええええええっ!?……」
そのあり得ない数を聞き、自信たっぷりであったお銀の脳裏にバリっと電撃が走ったお銀は余りの衝撃に事切れたのか、手に持っていた盃をポロリと落とし、座ったまま気絶し眠りについたのだった。
「おっ!?お銀も逝ってしまったか!この勝負、儂の圧勝であったなぁハッハッハッ〜!」
絹江が注いだばかりの酒をグイッと呑み干した仙花が上機嫌で単独の勝鬨をあげた。
ここぞとばかりに絹江が仙花から盃を取りあげる。
「ささ。仙花様勝負事は終わりにございます。絹江は今より片付けに入ります故、明日のためにも寝る準備を始めてくださいな」
「なにっ!?儂はまだまだ大丈夫!もっともっと呑むのじゃ〜っ!」
急に盃を取り上げられ、口を尖らせて駄々を捏ねる仙花であった。
そんな仙花に柔かな笑顔の光圀に話しかける。
「いやいや仙花。今宵の宴はこれにて御開きじゃ。周りを見てみい、み~んな朽ち果てて眠っておるわい」
光圀に言われ、キョトンとして周りを見渡す仙花。
「ふむふむ、いつの間にやら皆倒れてしまっておるのう」
話す二人の他は絹江が一人でせっせと後片付けに奔走しているだけで、あとは何も被らないまま壁にもたれたり、床に突っ伏して皆寝てしまっていた。
起きていたはずの九兵衛も疲れ果て倒れたようである。
「仙花。眠いだろうが明日の話をせねばらならい。儂はお主に渡す代物をちょいと取って来る。それまでに寝る準備を済ませ隣の寝室で待っておれ。良いな?」
「あいわかった。だがじっさまぁ。出来れば急いでおくれぇ。何だか急に酒が回った気がする……」
「承知した」
これ以上酒を呑めぬと悟った仙花に急激な眠気が訪れ、とろんとした目で年寄りを急かしたけれど、光圀はコクンと頷き足早に部屋をあとにした。
「最後の夜だというのにすまんのぉ~絹江ぇ。儂は手伝いたいのだが身体が重くて仕方ないぃ……」
もはや歩くことすらかなわなくなったのか、床を這いずり脚をズルズルとひきながら絹江に謝辞?を言う仙花。
「良いんですよぉ。これが私めの仕事です。それに仙花様は今宵存分に楽しめた御様子。あとは光圀様とじっくりゆるりとお話しをしておくんなまし」
絹江はそう言うと、囲炉裏に掛かる鍋を掴み台所へと去って行った。
「あやつはほんにできた奴よのう…」
そう呟く仙花がようやく辿り着いた寝室の襖を開け、寝床へコロコロと遊ぶように転がる。
「も、もうだめじゃ。眠くて仕方ない。ま、瞼がお……」
呟きを言い終わる前に瞼を閉じてしまい、すぴ〜と一つの寝息をたてたその直後。
「こりゃ仙花!寝るでない。話があると言ったであろう!ほれ、酒も持って来たぞ。起きるが良い」
光圀が仙花の紅い頬をパシパシと叩き起こそうとする。
本格的に寝ついた彼女であれば起きなかったかもしれないが、幸いにして未だ眠りは浅く「酒」という言葉が効き目を覚ました。
「ん、んん〜。じ、じっさまぁ。酒を一口呑ませてぇ」
「ええ〜い。手の掛かる酔っ払いじゃのう」
起きて直ぐに酒を要求する娘の口に酒の入ったお猪口をあてる光圀。
言葉とは裏腹に刀姫を見る元水戸藩主の表情は仏の如く優しかった。
「うむ、ちょいと気がしっかりして来たぞ。じっさま。話とやらを聞こうではないか」
お猪口一杯の酒が喉を通り、それだけで元気を取り戻した仙花が正座して光圀と向き合った。
この寝室にある灯りは温かみは感じるが乏しい蝋燭一本の光のみ。無論、部屋全体を照らせる訳もなく、空間の半分程は薄い暗闇に包まれていた。
めんと向かい合う光圀の顔から笑みが消え、此処に来て仙花が初めて見るような真剣な表情になる。
かつてない光圀の雰囲気や挙動を察し、仙花は両手で襟元を整えグッと気を引き締めた。
「…まずは明日からの旅のことだが、馬などは使わず徒歩で、つまりは『膝栗毛(ひざくりげ)』によって旅をするのじゃ」
全国行脚の旅を徒歩でと途方も無いことを言われた仙花であったが特に同様もせずに返す。
「じっさま。儂は言われずとも始めからそのようにするつもりであったぞ。馬などに乗って旅すれば見落としてしまう物事も多かろうからな」
正面に座す娘の物言いに得心のいった表情をする光圀。
「天晴れ仙花。若いのに良い心がけじゃ。儂は立派な娘を持ったのじゃのう。よし、話を続けるぞ。お主の大事な大事な刀を此処へ持って来るのじゃ」
「刀を?」
「そうじゃお主が小さき頃より持っておるあの刀じゃ」
「….承知。只今取って来るぞ」
何故このような夜更けに刀を要求されたのか疑問に思う仙花だったけれど、光圀が意味も無く要求するような無駄なことはすまいと考え、暗い部屋の隅に置かれる刀掛けまで移動し刀を手に取って戻る。
「ほれ、言われた通り取って来たぞじっさま」
「うむ。取り敢えずそこへ座るのじゃ」
素直に元いた場所へ刀を膝に置き正座する仙花。
刀を手にして何故だか分からないが若干の高揚感が窺える。
「で、次はどうすれば良いのだ?」
「そう慌てるでない。では、ゆるりと刀を鞘から抜き刃をその目で確かめるのじゃ」
「刃を?」
「そう、刃をじゃ」
未だ意図が読めずに聞き直す仙花を諭すような口調で言い直す光圀。
仙花が左手で鞘を掴みゆっくりと丁寧に刀を抜く。
薄暗い部屋の中にあっても刀の刃は綺麗に磨かれており相当な斬れ味を想像させる。
「ほうほう、お主が日頃から手入れしているだけあって美しい刃をしておるのう」
「ハハハ、これの手入れだけは毎日欠かさずやっておるからのう♪」
光圀に刀を褒められた仙花は照れながらも嬉しそうに笑った。
「良かろう、もう十分じゃ。刀を鞘に戻せ」
言われた仙花の反応は今一であったが黙って刀を鞘に戻す。
「お主も知っておろうがその刀の柄には頭が無い。柄の空洞にこれをはめ込むのじゃ」
「これは………」
光圀に渡された物は、鉄か石か区別がつかぬ物質で出来た黒く細い板であった。
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